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『真澄探当證』は雄略天皇から逃れた億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)の兄弟が真清田神社神主の叔父を頼って尾張一宮へ亡命し、弘計王と豊媛の間に男大迹(継体天皇)が誕生。乳母夫妻(後の物部氏の祖)とともに岐阜県の根尾村に隠れ住み、後に都に迎えられ継体天皇として即位するまでのお話です。 真澄探当證ゆかりの神社や土地などを訪ねたりします

『真澄探當證』の現代語訳は著作権侵害ではない

先日(六年くらい前のことです)、私の旧サイト『真澄探當證を読む』http://masumi.kodaisi.net/(以前は違うサブドメイン)
が入っているサーバー会社に、『真澄探當證』の著作権を侵害していると主張される方から、

発信者たる私の情報開示を求められました。

(注)この記事もサイトも古くなってますので、六年くらい前のことです

 

開示請求の理由が

「 発信者に対する削除要求のために必要であるため
謝罪要請のために必要であるため
加害者の対応によっては損害賠償請求権行使のために必要であるため」

とありました。

 

弁護士と著作権情報センターからは、以下の理由で、著作権侵害には当たらないと

言われてますとサーバー会社に説明しました。

それで、


著作権侵害ではないので、私は加害者ではありませんでしたし、

謝罪の必要も無く

私の個人情報を請求者に開示する必要はないとのことで、

サーバー会社の弁護士が請求を却下しました。

 

 

著作権情報センターも真澄探当證の現代語訳は著作権侵害にはあたらない

 

私は何年か前に、『真澄探當證』(ますみたんとうしょう)の現代語訳を載せるにあたって、著作権情報センターに相談し著作権侵害にはあたらないということを確認しました。

サイト冒頭部分にも以下のように掲載しております。

 

「このブログの内容、特に現代語訳することについて、公益社団法人著作権情報センターに相談したところ

・著作権は古墳時代なのでもう切れているので問題なし
・再出版された翻訳をそのままコピーして使用するのでなければ全く問題ない
(再販されたものは翻訳ではないのでコピーしようがないですが・・・)
・二次著作物についても、『真澄探當証』を活字にされた田中さまが翻訳されたものを使用するのでなければ問題ない
(再版された『真澄探當証』には翻訳は掲載されてないです。)

等々、公益社団法人著作権情報センターに確認したところ、現代語訳しても著作権については全く問題ないというお話でした。
現代語訳出来ないならば、学問研究に支障をきたすので、そんなばかなことはないということでした。」

 

真澄探當證は古墳時代の著作であり、原本はもうとうに著作権は切れていると著作権情報センターに確認した上で現代語訳を少しずつ自分のサイトに載せておりました。

私も真清田神社のある愛知県一宮市出身ですので、地元に帰った時は関係のある神社などを取材しておりました。

 

 

古典の現代語訳が著作権侵害なら『源氏物語』などの現代語訳も著作権侵害にあたるはず

著作権情報センターは古墳時代の著作を現代語訳することが著作権侵害なら学問研究に支障をきたすし、現代語訳しても全く問題がないと言っておられます。

以前、著作権情報センターからは『源氏物語』や『枕草子』なども現代語訳されており、それらの現代語訳は著作権侵害にはあたらないと言われてます。

 

今回、念のため再度、著作権情報センターに問い合わせ致しました。

 

公益社団法人著作権情報センター【著作権相談専用】 03-5333-0393

また著作権侵害だと言われたら再度、公益社団法人著作権情報センターに相談してくださいと言われました。

公益社団法人著作権情報センターに2017年10月13日の10:40くらいに「いぬい」さまという方が応対してくださったので、もし問い合わせることがありましたら、『2017年10月13日の10:40くらいに「いぬい」さまに真澄探當證のことで相談した』とそのようにお伝えいただければわかるそうです。

 

弁護士も『真澄探當證』の現代語訳は著作権侵害ではないとのこと

 

また、弁護士にも現物を持参してお見せして確認しました。

 

先ず、私の現代語訳は著作権侵害ではないので、私の個人情報の開示請求に応じる必要はないと言われました。

応対してくださった弁護士が、自分は名乗りもしないで、私の個人情報の開示だけを求めるのはおかしいとおっしゃいました。

私のサイト『真澄探當證を読む』はずっと公開しています。(何かあると怖いこととサーバー移転のために、サイトを閉じてました)

サイトにはコメント欄があるのに、いきなり個人情報の開示を求められるのは変だと思いましたが、最近はアーカイブが趣味の方が多いので、アクセス制限に引っかかったのかもしれません。

復刻版の『真澄探當證』は田中豊

『編』 

となっていて、編者は田中豊さまになっているけど、

「著」とはなっておりません

 

田中豊さまが、古墳時代の著作の著者だとは言えないそうです。

 

それに田中豊さまがお調べになられた巻末の資料部分は私は参考にしておりません。

私も一宮市出身ですので、真清田神社周辺のことは知っているからです。

それに一宮周辺以外のことも自分で調べたいからです。

 

例えば、古典の本を例にとってみますと
長く宮中の書庫に眠っていて近代になって発見され、

活字化され現代語訳が出された『とはずがたり』という書を例にしてみます。

 

とはずがたりの著者が後深草院二条だと古典の研究者ならだれもが知っています。

下に例を挙げました研究者は、校注、全訳注、訳、訳注とかかれていますが、

古典を活字化してその古典の著者だと主張される方はいません。

 

<校注や訳注 の表記の参考資料>


新潮日本古典集成〈新装版〉 とはずがたり (新潮日本古典集成) [ 福田 秀一 ]

福田秀一 校注 となっています。

 


【中古】 とはずがたり(下) 講談社学術文庫/次田香澄【訳注】 【中古】afb

他にも

『とはずがたり』 冨倉徳次郎 訳 (筑摩叢書) など

 

校注・訳・訳注とは書いてありますが、

もちろんどの研究者の方も校注・訳・訳注をされたからと『とはずがたり』の著者だと主張されるかたはおられません。

 

仮名文字を活字化した方が、著作者だと主張するのは私は見たことがありません。

 

活字化された方が、著作権を主張されるのなら、研究者の方も戸惑われることですし、研究に支障をきたす

ことでしょう。

「請求者が創作した著作物「真清探當證」」だと「創作」を主張しておられましたが、

活字化された方は、「田中豊」と書いておられるように編者であって、『真澄探當證』の著者ではありません

 

弁護士さんも二次著作物とは言えないとの見解

 

念のため弁護士さんに

上記の現物の本

をお見せして相談しました。

結論は、「請求者が創作した著作物「真清探當證」」とは言えないと思うとのことでした。

 

二次著作物とは言えないので、現代語訳しても、やはり著作権侵害にはあたらないと思う、と言われました。

理由は

1.手書き文字を活字化しただけでは二次著作物とは言えない

2.漢字に読み仮名が振ってあってもその人でなければふれないというものでもない

3.章立ても参考にしてなければ問題がない

4.巻末の資料などは参考にしていなければ問題なし

 

なので、著作権侵害とは言えないと思うとのことでした。

 

私は『真澄探當證』の地元民(元一宮市民)ですので、そこの地域のことはもちろん知ってますので、神社名や地名などを聞けばわかります。

なので、付属の参考資料は見ていません。

 

もし裁判となっても、おそらくは著作権侵害にはあたらないとされると思うとのことでした。

 

源氏物語に注釈を入れた、活字化したから自分が源氏物語の著者だと主張される方はいらっしゃいまん。

弁護士さんは、裁判になったら多分勝つでしょうと言われます。

 

著作権情報センターからは私が現代語訳したものは私に著作権があると教えてもらえた

反対に今回のことで、著作権情報センターの方に、私が現代語訳したものは私に著作権があるんだから、大丈夫だと教えていただきました。

活字化した本の売れ行きが悪いのは困るという出版社の都合があるから、著作権どうのとおっしゃってるのじゃないかとおっしゃってました。

東京の別の出版社の方にも伺ってみましたが、やはり同じ事をおっしゃってました。

 

今回、再度、著作権情報センターに問い合わせる前に

揖斐町教育委員会に問い合わせをしました。

真澄探當證は「請求者が創作した著作物」であるのか揖斐町教育委員会の見解をお伺いしたく
、揖斐町のホームページの問い合わせから問い合わせをしました。

まだご連絡いただいてませんので、ご返答があり次第掲載します。

<追記>

あれから六年以上お待ちしておりますが、揖斐町教育委員会からは何のお返事もいただいておりません。

 

真清田神社の三宮明神は熱田神、大己貴命の荒魂、大物主神

 

こんな記述を見つけました
「総社明神は尾張の国中嶋郡真清田社祭神大巳貴命にて、当国の一の宮なり。」 「和歌山市直川(のうがわ)にある丹生神社(にうじんじゃ)は 1192(建久3)年  紀朝臣實俊が尾張国熱田神を勧請し直川郷の総社とします。」 丹生社、総社の両神社は村中に在り一村の産神なり。 社傳に丹生明神は丹生津姫神なり。総社は尾張国熱田の神とある。 丹生神 は本国神名帳に正一位直姫神とある。 当丹生神社は高野の丹生大明神を里上山に勧請して祀りしを、天正年間に今の 地に移し祀る。里上山に丹生の段と云う舊跡がある。 総社明神は尾張の国中嶋郡真清田社祭神大巳貴命にて、当国の一の宮なり。 同神を建久二年に直川郷・紀朝臣實俊当所の領主となりたる時、勧請して直 川郷の総社とす。 古くは当社の前、東西に馬場あり、その東を的場といい、神事に走馬ありし跡 なり。 その祭禮に桃弓棘矢にて武者試馬流鏑馬に悪気を射し所、後世的場と云う字遺 称あり。 旧直川は東西両村に別れ、丹生社は東に祭る神なり。天正年間に総社境内に移 し、それより両社を同所に祀る。一村の産神と祭祀する。」丹生神社(にう)http://kamnavi.jp/ny/musonew.htmより
この神社があるのが、名草郡です 総社明神が鎌倉時代初期には大巳貴命を祀る真清田社とされていた しかも、「当国の一の宮なり」とまで書いています。
「基本的には、尾張や摂津、武蔵などの各国の国霊(大地の守護神)だが、 単に大国魂神・大国御魂神という場合は、日本(大和)の守護神を意味する。 『日本書紀』に大己貴命の別名として大国玉神とあり、 大和大国魂神は、一般的には大己貴命の荒魂、大物主神と同神と考えられている。(玄松子さんのサイトより)」   大和神社(おおやまと)のサイトより 日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第十代崇神天皇六年に天皇が神威をおそれ、天照大神を皇女豊鋤入姫命をして倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが当神社の創建であると伝えられている。(2000余年前)大和神社のサイトより
  天理市新泉町星山  祭神 中殿 日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ(大地主大神 左殿 八千矛神 右殿 御歳神 神紋 橘 5摂社 増御子神社「猿田彦命、天鈿女命」 摂社 朝日神社「朝日豊明姫」 摂社 タカオカミ神社「雨師明神」、延喜式では丹生川上神社の元宮とする。 摂社 渟名城入姫神社「渟名城入姫神社」 摂社 雅宮神社(まさみや)「天押雲根神」   その大己貴命(別名大国魂大神・大己貴命の荒魂・大物主神)を祀っていたのが尾張一宮大神神社です。 下記の「大神神社由緒略記」では 「大神神社」と「真清田神社」をまとめての「相殿・対の宮」と言うことで「尾張一の宮」とし、 大神神社のあるあたりは、「三輪郡・大神郷・熱田の庄蓮池と言われ」ていました゚ ゜゚゚☆゚ ゜゚゚☆゚ ゜゚゚☆*゚ 【尾張国一の宮 式内 「大神神社由緒略記」より抜粋転載】 (大字と赤字は筆者) 尾張一宮大神神社(愛知県一宮市)
【由緒】 「 ここ尾張地方は、木曽三川の河口部に開けた、広大な沖積平野。 川が入り乱れて、網の目のような低湿地。葦の生え茂った、大きな梁から転じて大梁・尾治・尾張となったとも言われている。人が住み着き集落ができて、弥生時代から古墳時代にかけて、邪馬台国から大和の国の頃、次第に東に「開拓」が進み、ここ「花池」にも大和系(三輪族)の人々が大物主神を祀る「大神神社」を建て、祖先を祀り日々の安泰を祈り、団結のシンボルとして神社を中心にして部族を発展させた。 一方、神武系の人々は、真墨田神社(後の真清田神社)を相殿という形で建てて「天火明命」を祀った。 また、奈良時代に国司が赴任してきて、国中の神社を代表として国府宮の「尾張大国霊神社」を尾張の「総社」に指定、次いで花池の「大神神社」と「真清田神社」をまとめての「相殿・対の宮」と言うことで「尾張一の宮」に指定した。嘉祥三年(八五〇)「文徳実録」「尾張国帳」には、従一位大名神とあり、三宮明神・三明神(神宝として珠・鏡・矢三種の御証印があった)と称せられ、延長五年(九二七)延喜式神名帳には式内社とあり、勅祭神社であったことが判る。 尾張の国中には、大名神八座・小一一三座あって、当時の大名神八座の中の一座である。昔の花池村は「三輪氏」一族の地方だった故か?・三輪郡・大神郷・熱田の庄蓮池と言われ、各所に白蓮が咲いていたとかで「蓮池」そして「華池」「花池」となり今日に及ぶと、伝えられている。」 【尾張国一の宮 式内 「大神神社由緒略記」より抜粋転載】
  大神神社は大物主を祀っており、氏子の地元の大和町の人達は、真清田神社を神武側だとおっしゃってます 出雲族は元々いた大和から移動してきて大和と地名を付け、大神神社を祀り、 その後に神武側の尾張氏が入ってきて、真清田神社を建てたようです
【尾張国一の宮 式内 大神神社由緒略記より抜粋転載】 尾張一宮大神神社(愛知県一宮市) 神社名:大神神社 鎮座地:愛知県一宮市花池2丁目15番28号 旧鎮座地:愛知県一宮市大和町宮地花池字西屋敷 御祭神:大物主神 社格:式内社名神大、旧郷社 例祭:10月10日 月次祭:毎月2日 宮司:大神社宮司兼務 【境内神社】 六所社:豊受皇大神、応神天皇、天児屋根神、倉稲魂神、式甕槌神、底筒男神 三島社:大山祇神 白山社:伊弉冊神 神明社:天照皇大神 招魂社:日露戦争以降の英霊 【境外神社】 素盞嗚社:素盞嗚命 以上、【尾張国一の宮 式内 大神神社由緒略記より抜粋転載】
大神神社の境内の楠f3a5dcb7.jpg 楠の木は海人族の神社に多い 船を造る材料だったからだ ゚ ゜゚゚☆゚ ゜゚゚☆゚ ゜゚゚☆゚ ゜゚゚☆*゚ 大巳貴命を祀る大神神社の奥の院が大縣神社と言われています 今まで、調べてきたことからも、大縣神社は丹生都姫( 罔象女神・アラハバキ)を祀っています。 輝く朝日の丹生都姫は天の御蔭命★三角縁神獣鏡はストーンサークルでアラハバキ?★天津甕星7 尾張は扶桑国?三角縁神獣鏡は須弥山?★天津甕星6 を参照してください。 時代が降るにつれ、鉱物資源も輸入され、吉野などでは水銀採取も廃れていき、丹生都比売大神の代わりに穀物生産のための、おかみや水分信仰が盛んになりました。そのため、祭神が丹生都比売大神であったのが、ミズハノメのような水神信仰になっていきます。 大縣神社でもアラハバキ・丹生都姫を祀っていたのが、武器なども銅から鉄製になり、銅の採掘も下火になるにつれ、水の女神の罔象女神に変わっていったのでしょう。 
丹生川上神社も同様に丹生都姫から神へと変わっていきました。 「上記の事は古来から高神が祀られていたと主張するものではない。祭祀跡に同神が勧請されたのであろう。 一説には高麗神であったとも言う。それが高神に変わる。高麗神も素盞嗚尊の子孫と言えなくはない。(神奈備さんの丹生川上神社上社の記事より)
丹生川上神社 奈良県吉野郡東吉野村小968雨師の明神、水神宗社 丹生川上神社(上社:奈良県吉野郡川上村、中社:東吉野村、下社:下市町)の祭神が、上社が高淤加美(たかおかみのかみ)、中社が罔象女神(みずはめのかみ)、下社が闇淤加美(くらおかみのかみ)です 水銀採集の氏族に半島攻略の功があったため、神宮皇后が天照大御神の妹として神領安堵しましたが 時代が下るのつれ、水銀採掘が廃れ、農業用水としての水の重要度が高まったために、祭神が丹生都姫から水の女神へと変わっていきます。 後に丹生都比売大神は弁財天女と姿を変えて信仰されます。 丹生川上神社は神武天皇が長随彦と戦うに当り、高倉山にて夢訓を得て、椎根津彦等に命じて天香山の土を取ってこらし、丹生川上に於て神祇を敬祭せらしめた場所です(丹生川上神社サイト参照)」 神武がここで呪術を行った理由は、丹生川上社の元宮が大和神社(旧称は朝和之宮(あさわのみや)で、大国御魂神を祀った社だったからです 神武が天香山の土を取ってこさせたことからもわかりますが、この時の丹生都姫達の本拠地は大和だったようです 四国にも同じ名前の天香山があるのは、四国・大和も海神族が移動して開拓したからではないでしょうか? ○●○●○●○●○○● ○●○●○●○○●○●○●○●○ 真清田神社の三明神 火災のため、一時期尾張一宮の大神神社のご祭神が真清田神社に引っ越ししていたことがありました それが戻ってきて、今ある場所に少し移動しましたけど、かなり社殿等も縮小されてしまいました それは地元民なら知っています。
「戦国時代の浅井田宮丸の乱で社殿を焼失して以降荒廃し、神宮寺である薬師寺の境内に遷座した。明治3年、薬師寺に隣接する現在地に再建された。」ハッシー27さんのブログより
真清田神社の祭神は火明命と言われています では祭神が大巳貴命とされていたのはなぜでしょうか その理由は「水石の美を求めて」さんが詳しく追求されていますので、どうぞ(写真もお借りしました) <追記> このお写真の絵は一宮市博物館にありました。ジオラマ模型もありましたので、別記事に掲載します。 真清田神社の三つ鳥居 三宮明神
水石の美を求めて」さんの新春の真清田神社 その4より図もお借りしました 「真清田神社古絵図の画像は極めて不鮮明なので、かなり加工した上で三輪鳥居の部分をアップします。」003_convert_20140116092250.jpg
真清田神社本殿背後の三輪鳥居。上端のほぼ真ん中に見えています。三輪鳥居の先に三宮明神が祀られてました。現在は三輪鳥居はありません。 現在は祭神は「火明命」ですが、実は真清田神社の桃花祭では、 祭の神輿の順番は本殿の後ろに祀られている「三明神」が先頭で、「火明命」よりも上位の神ということになります その、三明神というは三輪鳥居が建てられていたことからも、大巳貴命のようなのです 三輪鳥居(みわとりい・ウィキより) 画像 
真清田神社「三明神」 本殿の後ろがちょっと高くなっており、平成になって再び三宮明神つまり、大己貴命の荒魂、大物主神が祀られました 阿多隼人は吉野にも進出していました。阿多=熱田でしょう 鉱物の民、海人族繋がりです 熱田の庄の熱田とは熱田神宮で、阿多隼人とも関係が深いです。 約1300年前の尾張地方(猿投神社の古地図) jpg1300前の猿投神社古地図zu_n 当時は大神神社も真清田神社も島のようなところになってました 尾張中島とか、地名に残ってます 犬山出土の銅鏡に表わされた海に囲まれた島にある須弥山とも似ています 中洲といえば、弁財天を連想します 宗像大社も天河弁財天も中州にあります 熊野本宮大社の大斎原も河の中洲にあります
海人族が船で乗り付け、犬山などで銅などの鉱物を採取できそうです この他にも尾張国古絵図があります
ハッシー27様のブログより 「 熱田神宮の境内は古くから雲見山・蓬莱島の名で知られる。これは往古では熱田の地は海に突き出した岬のようになっていたためである。熱田の宮は海を正面にして造られていた。 画像 熱田神宮古図には神社の前に海らしきものが描かれ舟が浮かんでいる。 熱田の宮は蓬莱山の伝説があり、かつては「蓬莱宮」とも呼ばれていた。この熱田の宮を海から見て左、そこに名古屋城とその城下町が位置していたことから、名古屋及び名古屋城は別名・蓬左と言われた。名古屋城が名古屋のシンボルになる前は、間違いなく熱田の宮が名古屋(尾張)の象徴だった。今では「蓬莱」の名は名古屋市内の店の名に僅かに残るだけになったという。」以上、ハッシー27様のブログより
犬山市の東之宮古墳出土の三角縁神獣鏡-4 大縣神社のある犬山の古墳から出土した三角縁神獣鏡には、海に囲まれた島か陸にある須弥山(Sumeru)のような世界観が表現されていました 須弥山に対して、熱田神宮は蓬莱山と呼ばれていたのでしょうか 表現は違っても、同様のことを表してるのでしょうか 大縣神社のある犬山ですが、以前、丹生都姫の息子とされる高野明神も白黒の犬を連れており、犬飼星の三連星と同じで、鉱物の民と犬や犬飼という地名はセットのようです
途中ですけど、続きはまた あ、真清田神社の三宮明神は瀬織津姫ではないですよ。 瀬織津姫は摂社に祀ってあります。
証拠写真は真清田神社の三宮明神 にあります。
2014年8月12日 11:07

再開しました

サーバー移転のため、サイトを一度閉じて移転したたため、サイト中の写真などは消えてしまったものもあり 保存してあるものを再掲載していく予定です   

しばらくは写真が消えてしまった記事もあると思いますが どうぞご勘弁ください   
ぼちぼちと、逐次訳ではなく、概略をかいつまんで書いていくかもしれません  
 
またよろしくお願い致します


 

真澄探当證15 市辺押磐皇子の乗馬が帰宅し池に転落死

 真澄探当證15 市辺押磐皇子の乗馬が帰宅し池に転落死

 

西暦444年、甲申(きのえさる)八月八日の未明の五時ごろ、

 

弟宮の御馬皇子が前触れもなくお一人でいらっしゃって、市辺押磐皇子邸をご訪問なさり、

続いて四方山話から今上天皇の安康天皇の殺害変死及び大泊瀬幼武命の御謀略の企画、

天皇位奪取の目的で、市辺宮の誘拐に至るまでのご想像でのお話を拝聴した。

 

市辺宮の姫宮はじめ臣下一同の辛い胸中は想像出来ないほどである。

もしや弟宮の想像通りの場合、どうしようかと臣下上下驚き恐れるのであった。

我が君の安否の報告が来るのを待った。

 

この時、市辺宮の御乗馬は、主人を近江商人に託し、

遺物(形見)の皇子がお付けになられていた冠を素早く咥えて帰宅した。

しかし、兵達の包囲を受けて、八方より射られた矢に当たり、流血が滴り落ち、負傷は数え切れないほどであった。

とうとうびっこを引くようになり、三本足で傷んだ足のまま、ようやく帰宅した。

 

だが、遠距離でひどい傷に耐え難いと雖も、一旦記念の遺物と考え、

畜生ながら人も及ばぬ仕事であり、冠はそのまま咥えて来た。

 

市辺宮の邸内の東南に泉水の池があった。

その池の上りに切戸から通り抜け用の小路があった。

いつもこの小路を通るのに慣れていたため、負傷の酷い体を顧みないで、

いつものように通り抜けようとして焦って、

通る際に、誤って三本足のために、墜落死した。

 

この時滑り落ち、斃れる際に誤って咥えてきた冠を離したために、

冠は池の水に浮かびつつ風に揺られ、岸に吹きつけられていた。

 

しかし、冠の正面についていた日月を形採る明鏡はその前に堅く咥えて数里を来るうちに、

終に緩んで壊れたため、池底に沈んだ。

hanakatami

真澄探当證14 御馬皇子、大泊瀬幼武命に生け捕られる

 御馬皇子、大泊瀬幼武命に生け捕られる

 

この農夫からの報告を得て、御馬皇子の怒り顔は夜叉のごとくになり、猛獣か荒ぶる猪を再び駆けさせるがごとくに御乗馬なさった。

この時、大泊瀬幼武尊は市辺宮主従を目的通りに殲滅し、全滅したのを確認して、場所をかえてここに凱旋して、勝利の旗を立てて翻していた。

この様子をご覧になった御馬皇子は、怒り顔がなお一層増し、翻していた旗をすぐさま切り落とし、怒りを少しはお晴らしになった。故にこの地を後世、切幡と名付けた。現在の切幡村(奈良県都祁村)がこれである。

なお続けて馬をとばし、兄宮押磐宮の敵を討とうと、兎に角ずんずんと進んで、もし、多勢に無勢で、敵対できないときは、馬の蹄で蹴り散らしても、倒さずにはおかないという勢いで進まれた。

しかしながら、この御馬皇子は、他の宮たちに優れて、最も英傑の聞こえが高く、もっとも馬術も堪能で、一騎当千の勇敢無比の宮で、故に他には目もくれず、一目散に敵陣めがけて突進した。

大泊瀬幼武尊方は御馬皇子が勇敢で武勇に優れているのを聞き知っていたので、本当に戦ったなら不利であるのを予測し、屈強の家臣を選び、途中で伏兵を命じて、その他全ての者たちは凱旋気分に酔いしれていると装って、陣幕の内側でわいわいと騒いでいた。

これを見た、御馬皇子は、途中に伏兵を潜ませてあるとはしらず、一目散にに馬を駆けさせている最中に、道の傍らの藪の中から突然躍り出て、乗馬の前足を殴打したものだから、前足を殴打された馬は、前足の膝を折り、即座に斃れた。この拍子に前に転倒し、御馬皇子は敵めがけて進んでいる最中に突然馬が斃れた拍子に落馬した。これを見た数十名の潜伏兵一同に皇子は襲い掛かられて、起き上がろうとしたところを組伏せられ、終にからめとられて、生け捕りの憂き目に遭った。

この時、御馬皇子は、闇討ちに遭遇して、素晴らしい英雄豪傑も無抵抗のまま、瞬時のうちに敵の手によって、激しく縛り上げられて、からめとりにあったことは、皇子はずっと残念だ、残念だとのみ叫んでいた。

大泊瀬幼武尊は喜んで、目的通りに我が術中に陥るとは天からのプレゼントだと歓喜した。

故にこの地は後世になって、大泊瀬幼武尊の凱旋地であるので、勝原・かつはら(奈良県山添村)と名付けた。

この隣村の御馬皇子が闇討ちにあった結果、無抵抗で捕まり、この絡めた者どもが激しく縛り上げたのが、御馬皇子であったため、後世この地を結馬村・けちば村(名張市)と名付けた。

先に市辺押磐皇子が、予定地に来たのをもって、この狩猟場を来野と名付け、のにちまた来野を北野に直した。現在の大和山辺村北野村(奈良県山添村)がこれである。

真澄探当證13 御馬皇子、市辺押磐尊救助のため後を追う

 御馬皇子、市辺押磐尊救助のため後を追う

 

市川老人より事情聴取した御馬皇子は、なお一層合点が出来ず、

たとえ親戚筋であっても不審な点が多く、もしや大泊瀬幼武命に反逆の意図があり謀略があると、脳裏に浮かんだため、俄かに顔色が変わって、合点がいき、声を荒げて「馬を引け」とご下命があり、

老人が問うたのは「何事が起こったのですか」ということで、

皇子は「これは容易ならざる重大事で、このままだと兄宮が危険だ」と宮宅の人にも断りなく、なげしにかけてあった槍と弓箭、箙(注)を身に付けて、そのまま馬にまたがって、馬の横腹を蹴り、出発なさった。

 

この時市川大臣を初めとして、臣下一同お供いたしたいと宮に申し上げた。

御馬皇子がおっしゃるには、

「お前たちを従者として伴ったら、遠路で遅れる恐れがあり、危機に瀕しなさっている兄宮が敵兵にかかり斃れなさったなら、詮なきことだ」

と市辺押磐宮の臣下一同が諌めるのも聞き入れなさらずに、槍を小脇に抱えて駆け出しなさった。

 

この時、御馬皇子が急に単身で御出立なさったのは、同伴者が大泊瀬幼武命だと聞いたからで、今上天皇は殺害されなさって変死された。

噂になっているのにこれを秘密にして隠匿して、あまつさえわが兄宮を狩猟に事寄せ、油断させて誘拐し、暗殺を企てる意図があるのは間違いなし。

次の天皇は、わが兄より他に天皇の御位を継ぐ道はないので、一人御馬皇子は早朝に従者もなく、単独でご訪問され、

ことに御馬皇子と市辺押磐尊はご兄弟の仲睦まじく、ただ兄宮さま、兄宮さまとお慕いして、また市辺押磐尊は何事も弟宮の御馬皇子にご相談なさる間柄で、相談しなかったことは一度もなかったのに、

今回初めて御馬皇子にご報告もなく、無断で御出立なさったので、弟宮として、親戚筋の大泊瀬幼武命に謀られて、みな亡くなってしまったかと、思った御馬皇子は少しの余裕もなく(ご出立なさったのは)至極当然のことである

 

この時、御馬皇子は御乗馬に跨り、一鞭あてて、狩場目指して進んでおられた。

この時、御馬皇子が単身ご出立なさったのは、相手方の同伴者が大泊瀬幼武命だと聞いたからで、昨日、今上天皇が変死なさったという報を聞いて、次の天皇は兄宮だと信じて、故に弔いの公布が遅いので不審に思い、

このため兄宮と協議して、弔問のお見舞いの相談に先触れもなく訪れたのに、今の兄の猟友が大泊瀬幼武命と聞いて驚いた。

 

これは実の兄である天皇の暗殺にあったというのに、その弟宮の大泊瀬幼武命が狩猟とは合点がいかない。

何か腹に一物の隠し事をしていると察して、さては天皇位を奪い継承する目的のため、兄宮を誘拐して暗殺する計画を企てたと感じ取った。

 

疾風や速き矢のごとく、瞬時に乗馬で飛ぶように駆けてきた道に二股に分かれる場所があった。

ここで一人の農夫に遭って、お問いになった。「市辺押磐尊が狩りに行かれたのはどちらか」と。

農夫は答えて

「お尋ねの市辺押磐宮主従は、昨晩ここをお通りになり、今朝未明に大泊瀬幼武命と合戦が狩場であって、市辺押磐宮主従は襲撃に遭遇されて、一族は惨殺され全滅して、このことは噂でここら一帯では、これは騙し討ちにあったと専らの大騒ぎになってます。」

つぎに農夫が重ねて言うには、

もう今頃は狩場より東南におよそ一里(約4km)ほど距離がある場所に軍勢も引き揚げ、目下凱旋の準備をしているという噂で、西の辺りで聞いたことを物語った。

 

この時、御馬皇子は農夫に一部始終の噂を聞き、推察していたとおりに、謀略にあって殲滅したかと凄まじい怒りの色を表して、道を転じて右折して進んでいかれた。故にこの土地を後に、馬場(奈良県都祁村)と名付けた。

 

 

(注)箙 えびら、弓を背負う道具、矢筒 (図はウィキペディアより拝借)

真澄探当證12 市川大臣の御馬皇子への謝罪

 市川大臣の御馬皇子への謝罪

 

このとき御馬皇子に市川大臣は、「全て自分の手落ちです」と詳細を秘密にしたまま、謝罪し、お詫びするのだった。

御馬皇子は市川老人に向かって「そなたが何も言わず、ただお詫びだけでは何もわからないではないか。詳細を語り聞かせよ」と御審問があった。

これはいつも兄弟の仲が良いため、事の大小を問わずいかなる小さなことでもご兄弟で相談して話し合っておられたので、今回もそうでないことはなかったのに、この度は遠路狩りの旅に出たという大事件なのに、知らせが無いため、市川老人の手落ちで、全ての事を市川大臣が纏めて相談までもする役目で、この大切な役目を果たさなかったのは、市川大臣の手落ちであるので、これはいつもと違うという意味の謝罪であった。

であるのに、御馬皇子のお気軽なお尋ねで、市川大臣は恐縮して詳細を物語るのであった。

老人が答えて奏上するには、「実は一昨日、倭、山代、伊勢の国境に連らなる峰に猪、鹿、雉、山鳥など鳥獣がたくさん生息することを知らせてきた者がいました。元来、狩猟好きな我が君さまは、直ちに狩りに行かれました。しかるに、かの連峰までは相当な距離があるため、種々ご出立の準備に忙殺され、ご報告するべきところをせず、ご報告漏れはこれひとえにこの老人の手落ち」とお詫び申し上げた。

「なお、相手方の都合により、今朝未明に、目的場所で落ち合う約束のため、日中は暑さ激しきために耐え難いと思い、昨日、申の刻に宮様は御出立なさいました」と。

この時、御馬皇子は重ねてお問いになった。「相手の猟友は誰ですか?」とお聞きになった。

市川大臣の老人が答えて奏上するには「相手方はご心配には及びません、ご親戚筋の大泊瀬幼武命 (雄略天皇) がご同伴の方ですので」と申し上げるのも終わらないうちに、御馬皇子はたちまち顔色が変わり、

「今朝、こちらの宮邸に伺ったのはひとえにこの話(安康天皇暗殺)の噂があるために、兄宮に内密でご相談をするための用向きで伺ったのだ。今、兄宮の同伴者が大泊瀬幼武命と聞き、このような大事を公表もせず、秘密にし、今兄宮と今上天皇が殺害されなさったのに、狩猟などの遊びとは合点がいかない。」

と、なお続けてお問いになって、
「同伴者の大泊瀬幼武尊より一昨日、ご親書をこちらに寄越されて回答を待ち受けて持ち帰ったのですが、その際にこの老人は不在で、宮が回答なさった内容は存じませんでした。それで臣下のこの身をもち、諫言同様に、思うところを様々に申し上げれば、
市辺押磐皇子は『今回だけはこの老人の言うことはきかない』とおっしゃるため、やむなくご下命どおりに、昨日、申の刻までに諸準備整えて御出立あそばされました。何分にも、急な仰せのために、従者など諸準備に忙殺され、ついに貴宮までご報告漏れとなってしまいましたこと、重ね重ねこの老人が愚かであるためです」となお一層お詫び申し上げ、お許しを乞う旨申し上げ、真心籠めて物語るのでした。

真澄探当證11 御馬皇子の市辺押磐皇子宅訪問

真澄探当證11 御馬皇子の市辺押磐皇子宅訪問

 

西暦444年、甲申(きのえさる)八月八日の未明の午前五時ごろ、

現在の乙木村(おとぎむら) に住む御馬皇子は、従者もつれず、お一人で御乗馬にて住み慣れた宮宅より、

兄の市辺押磐皇子邸に内密の用があって訪れ、取次は誰かいないか呼んだ。

 

この内々の秘密の用件は、昨夜今上天皇の安康天皇の事で、天皇は突然、暗殺されたことを秘密のままにして、

発表がないのを知っている人がいると言う噂が盛んに流れているのを聞き知り、兄宮に相談の上で、弟である宮は見舞いなどするべきかとの相談する必要があって兄宮宅を訪問したのだった。

 

 

夜の明けきらぬうちに、突然従者も連れないで、十町(注1約1.1km)余り隔たった乙木村から内山まで、単独で宮は訪問した。

この時、市辺押磐皇子邸には何の先触れもなく、突然の弟宮のご来邸に驚き、出迎え役の市川大臣は御馬皇子を出迎えて、奥殿に案内申し上げた。

 

市川大臣は御馬皇子が単独でご来訪されたご用の趣きを承りたいと宮に申し上げた。

御馬皇子が仰るには

「兄宮に秘密の相談をするために来たので、一人で早朝にこちらを来訪した」と言うことを内々におっしゃった。

この気安い挨拶の理由は、市辺押磐皇子と御馬皇子、青海皇女(おうめ皇女)ご兄弟三の宮とも、父履中天皇の御崩御の砌は、幼かったので、ことに御馬皇子はまた乳呑み児同様の幼児で、ご兄弟三人とも市川大臣がご担当し、御養育申し上げた間柄のため、いつも宮さまたちは市川大臣を指して、「叔父、叔父」とお呼びになっていた。

 

このような間柄である故に、実父にものを言うよりなお一層心安く、宮宅の繋がりにおいては、親戚ぐるみで仲良くしていた。しかし兄宮の姿が見えないので不思議に思い、御馬皇子は詳しい事情をお尋ねになった。

この時、市川大臣が答えて申しあげるには、

「誠にお知らせもせず、何ともお答えいたし難く、このことはこの老人の手落ちであると、お詫び申し上げます」と謝罪し、許しをこう有様は、平身低頭にて、ご挨拶申し上げるのであった。

 

町(注1)

1町は約109mなので、10町で約1.1kmくらい

真澄探当證10 村人は市辺押磐皇子主従の遺体を捜索

真澄探当證10 村人は市辺押磐皇子主従の遺体を捜索

 

この時参加し、市辺押磐皇子の命を助けるのが姥久手の多くの村人は、負傷兵が語る通りに戦場に赴き、市辺押磐皇子主従の遺体を各所捜索中に、殲滅した宮宅従者の遺体がここかしこに散在していた。

たた、不思議なのは、市辺押磐尊および侍従長の佐伯部売輪(さえきべのうるわ)の遺体が判明しないので、敵兵が奪取していったか、いち早く遁れて去ったか、生死不明だと思った。

 

伏拝村と助命村と名称

だか、田舎人は、遺棄してあった遺体を全部集めて、よく主に尽くして戦死を遂げた士卒であるので、懇ろに埋葬をした。ここにおいて、さきにここに宮宅を伏拝み、懇ろに葬式を行った村を伏拝村(ふしおがみむら)と名付け、この地を助命村(ぜみょうむら)と名付けた。これは村の勇敢なものが全員で、宮宅主従の一命を助ける目的で馳せ参上したという意味合いに基づいて、この名を付けた。現在の大和国(奈良県)山辺郡伏拝村と助命村のことである。

真澄探当證9 近江商人は市辺押磐皇子主従を背負い逃げる

 真澄探当證 9 近江商人は市辺押磐皇子主従を背負い逃げる

 

二名の商人は死んだも同然の市辺押磐皇子主従の近くにより、負傷と生きているか死んでいるかをみたとろこ、まだ生きており、命を保っていたが、矢傷は深手であった。

だけど連れて逃げて、介抱したら、蘇生するだろうと思い、

幸い敵兵がいないのを確認して、この合間に主従を背負い、外部からは近江筵(注1)で負傷者を隠して、荷物を背負うように装って、旅の商人のように身支度を調えて、この危険な場所から避難した。

 

今までこの乗馬は敵兵を追い散らしていた勢いを失い、この商人たちがなすままにさせていたけど、敵兵を見張り、商人たちを守ることは怠りなく、以前のように周りを守護していた。

 

しかし市辺押磐皇子を背負い、上半身が隠れる際に、宮の冠がとれたのを乗馬は素早く冠を加え、いずことなく立ち去った。

 

 

この時四方より走り集まる敵兵の中を市辺押磐皇子主従を背に乗せたまま、切り抜ける武術は素晴らしく天晴れ豪傑であった。

敵兵が群がる中を首尾よく切り抜け、本国を目指して帰る道すがら、追っての兵を恐れて、方向を変え道を方角を東北に行くところを、西北目指して遁走した。

 

 

これより先に、市辺押磐尊の家臣の従者で、勇敢にも敵の大群の中を切り抜け、尊の命令を守り、遺言を伝える目的で、この時、尊の命を助けてくれる人を大声で呼び、田舎の人に同意を求め、この従者の声を聴いて出てきて加わった村人は、どんな訳でこうなったか、場所は何処かなど詳細を訪ね、宮の従者はあったことをに詳しく語った。

 

(注1) 近江筵

畳表のことのようです。昔は畳は貴人しか使えませんでした。奈良時代から近江地方ではイグサの栽培がおこなわれていたようです。真澄探當證に書いてあると言うことは、古墳時代にもイグサの栽培が近江地方で行われていたのでしょうか?

真澄探当證8 近江の国の商人が市辺押磐皇子主従を助ける

 真澄探当證8 近江の国の商人が市辺押磐皇子主従を助ける

 

この時、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)主従は、予定通り市辺押磐皇子主従を惨殺して、

目的を達したといえども、今だに市辺押磐皇子と侍従長の佐伯部売輪(さえきべのうるわ)らが生死不明のため、

ここかしこと捜査中に、ついに主従が深手の傷を負い、そのまま倒れているのを発見して、大いに喜び、主従の首を刎ねて持参するより、そのまま体ごと拉致しようと、包囲したところに、

逃げた市辺押磐皇子の乗馬が駆け戻って、包囲していた敵兵めがけて蹴り飛ばす勢いで、実に優れた勇将も及ばぬ唯一無二の働きをして、これに困った大泊瀬幼武尊の臣下群臣兵卒は、市辺押磐皇子主従を捨ててそのまま退散した。

この時、ご乗馬は主をもう奪い去ろうとする時に、猛烈に敵兵を追いちらし、続いて主従の傍らにぐるっと周りを囲んで守護することは、以前のごとくで、四方を眺めて守護に余念がなかった。

 

この有様を見ていて、馬のあとをつけてきた近江商人らは非常に感心して、

獣といえども主に尽くす忠孝は普通の人が及ぶところにあらず。

ならばこの乗馬の主人は、この負傷者であろうと話しつつ、しかし旅の商人は皇子であるのを知らず、ただ種々の装飾品が見事であるので、相当に名のある武将であろうと想像して、

もしや我らがこの土地を遁れて、自分達の本国で介抱して養生させれば、蘇生して回復し、再度また戦えるようにもなろうと、二人は共に皇子たちを助けようと決心した。

真澄探当證7 市辺押磐宮の御馬と近江商人

真澄探当證7 市辺押磐宮の御馬と近江商人

 

 

この時、市辺押磐宮命が御落馬あそばされるや否や、

宮の御乗馬は何を思ったのか、そのまま主人の宮を置いてそのまま何処かにかけていってしまった。

 

ここで不思議なのは、倭の国より近江の国に通じる往還街道があって、

その往還街道を二名の旅の商人が通行中で、

この商人らは近江の国の住人で、倭国に商用に行き、今商売が済んで帰る途中で、

この地に差し掛かるやいなや、市辺押磐宮命の御乗馬がそのまま逃げて来て、

あちこち彷徨って、ようやくこの土地に訪ね来たところで、

 

この旅の商人が往還街道を通行中に、旅人の着物の裾を咥えて異様な嘶きをするので、

旅人たちは何か起こったと推測して、

二人の商人は相談の上、乗馬が行くところに後ろから着いていくことにした。

 

真澄探当證6 市辺押磐皇子主従、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)により殲滅 従者の一人が君命を守り敵中を切り抜け血路を開いて遁走

 市辺押磐皇子主従、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)により殲滅

従者の一人が君命を守り血路を開いて遁走


この時、従者の一人が市辺押磐皇子の君命を守り、大勢の敵中を切り抜け、血路を開いて遁走した。

この者は市辺押磐宮宅の従者の中でも有名な屈強の若者で、武芸に秀で、勇敢であるのは並ぶものなく、天晴にもこの豪傑は、身に数十か所の負傷を負ったにもかかわらず、大勢の敵を切り抜け、主君の命令を守りとげようと必死になって、戦場をしばらくして切り抜ければ、ここかしこに敵の騎兵の群れもいて、伏兵もいたが、ここまで来るともう敵の姿は無く、安全な場所だと思えるので、この若者は、落ち着いて主君のいる方角を再三再四伏し拝んで、今生の別れを告げ、ようやく次の村落に辿り着き、村人に

「私は市辺押磐宮宅の臣下です。宮宅の主従は大泊瀬幼武尊の逆襲に遭って、もはや殲滅したも同じこと。村人よ、直ちに市辺押磐皇子の元に馳せ参じ、加勢してくだされば、宮宅の主従は助かることもあるかもしれません。何卒、なにとぞ、宮さまたちの御命をお助けください。」

としきりに嘆願をし、「助命、助命」と呼び叫んだ。

この時村人たちは異様な声で助けを呼び、走り回る舎人の悲嘆に驚き集まって来るものが大勢いた。

真澄探当證5.市辺押磐皇子主従、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)により殲滅

真澄探当證5.市辺押磐皇子主従、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)により殲滅

 

大泊瀬幼武尊(雄略天皇)たち一行は、市辺押磐皇子主従の様子を探り、

大泊瀬幼武尊の従者は市辺押磐皇子の出発をいち早く大泊瀬幼武尊に注進したので、

この報告に接するや否や、大泊瀬幼武尊は俄かに、兵士達を激励し、

市辺押磐皇子主従が到着したらすぐに襲撃をかけ、圧倒し木端微塵に打ち砕こうと、かねてより計画した予定地に陣をしいて、準備万端調えていた。

 

このような険悪な謀略が企てられているとは知る由もない市辺押磐皇子主従は、

約束通り暁方に間近い時間に予定地に向けて進んでいた途中に、素早いスピードで射る矢を一斉にいられ、

まさに百の雷に撃たれたように、瞬く間に討ち死にする者が多く、

この時市辺押磐皇子は、大泊瀬幼武尊の謀略に陥ったことを初めて悟り、

乗馬のままあたう限りの大声で臣下たちに向かって

 

「予は大泊瀬幼武尊の計略に陥った。このままでは殲滅するだろう。

お前たちのうち誰でも、この場を遁れて早く我が邸内に状況を報告せよ」

 

と声を限りにお叫びになった。

 

この時四方から射かける矢が早いので、臣下一同は主の身が危険にされされているため、

「御下馬なさいませ」と宮様に奏上する声が、臣下一同より続いていた。

 

しかし、市辺押磐皇子は、この時に敵の矢に当たり、ご落馬なさった。

この時、臣下の佐伯部売輪は急いで駆け付け、皇子を抱いて、そのまま背負って、敵前より避難しようとしたが。

四方より矢を射かけられる強い矢や遠くからの矢は数限りなく、

かつ今回は狩猟が目的であったために、武装もしておらず、ご親戚とお会いになるというので、

気楽な遊びの心持でいたため、突然の襲撃に遭って、

このような謀略の企てがあるのは前々から計画していたのだと、初めて悟ったのだった。

 

市辺押磐皇子主従はよく防戦し、よく戦ったが、矢尽き、多勢に無勢で対するは困難であり、

終に殲滅させられ、惨殺されたのであった

真澄探当證4. 市辺押磐皇子主従、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)により殲滅

真澄探当證4. 市辺押磐皇子主従、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)により殲滅

 

A.D.444年 甲申(きのえさる)八月七日、午後三時ごろ、

市辺押磐皇子は弓箭、箙まで全て替えのものを含めて身に着け、

宮さまには頭に長烏帽子冠に、狩衣装束を召され、ごく軽装のいでたちで、

従者の総取締に佐伯部売輪(さえきべのうるわ)を主として、

舎人の内でも屈強のもの数十人を選抜して、御出発なさって、

今日の夜の九時ごろまでに予定地の四キロほど手前まで到着した。

 

 

しかし、明日の明け方に会う約束であったので、四キロほど手前で露営することにした。

 

この時近隣の田舎の人が誰が言うでもなく、宮さまが狩りのお越しなさったと騒いでいるうちに、

多くの氏族の人達が遠路はるばるお越しのお見舞いかたがた集まってきた。

 

でも何か献上する物はと色々考えても、何分にも突然のおなりなので、

どうしようもなくて、暑気払いとして、各所に貯蔵してある籾を取り出して、湯が沸騰している中に投入して、

甘酒を作って、市辺押磐皇子主従に奉ったので、

主従みなの喜びは一方ならぬもので、それを飲んで満腹になったのであった。

 

蚊帳野の由来

この時、もう夜も更けてきたので、蚊の群れが襲って来て、追い払うのが大変であった。

それでやむを得ず農家に依頼して、蚊帳を借りて集めてもらい、

この野原に柱の代わりに支柱代わりの竹をたてて、ここに蚊帳をつり、

明け方の四時ごろまで露営宿泊することにして、市辺押磐皇子主従は床に就いた。

 

この時、野原に蚊帳を吊ったので、後世、この地を蚊帳野と呼ぶことがあった。

 

的野(まとの),待居村,松尾村の由来

同日、泊瀬幼武尊主従は、市辺押磐皇子主従の動向を探り、謀略で奇襲するために、

二キロ隔てたところに陣を構え、露営して待っていた。

 

この時蚊野に宿泊の市辺押磐皇子を目的に待っていたので、後世、的野(まとの)という。

また、一名、この地に大泊瀬幼武尊一族が待っていたので、待居村と名をつけた。

後に松尾村と改称した。

 

 

A.D.444年 甲申(きのえさる)八月八日の夜明けの四時ごろに、

市辺押磐皇子主従は付近の田舎の農民に対して、いたく昨夜お世話になったことのお礼を言って、出発した。

市辺押磐皇子は、第十七代履中天皇の第一皇子である。

真澄探当證2.大泊瀬幼武命 (雄略天皇) の陰謀

真澄探当證2 大泊瀬幼武命 (雄略天皇) の陰謀

 

A.D.444年 甲申(きのえさる)八月六日辰の上刻

 

大泊瀬幼武命(おおはつせわかたけるのみこと)は平常のごとくよそおい、帳内(とねり・舎人)に命じて、市辺押磐皇子(いちのべおしはおうじ)に書簡を出した。

 

大泊瀬皇子は武勇に優れた臣下に、

「私の兄天皇が襲われ崩御されたので、私は天皇になることは出来ない。第一候補は履中天皇(17代)の皇子、市辺・御馬の二皇子がいる。第二候補は反正天皇(18代)の遺児がいる」とおっしゃった。

それで奸智に長けた臣下は協議し、市辺皇子を誘拐することにした。この機に乗じて手紙をしたためた。
文面は不明

 

大泊瀬皇子の帳内(家来、配下)は、手紙を入れた書箱を持ち、市辺押磐皇子邸に参上し、手紙であることを申し上げ、御返答をお願いしますと奏上した。

 

宮宅の取次は、皇子に詳しく申し上げ、手紙をお渡しした。

返答を待っているので、普段は市辺宮顧問の市川大臣が全て指揮するのが通例だが、この時は市川老人の姿が見えないので、大泊瀬皇子とは親戚の間柄で、市川大臣がいなくても、いとこであるので、気安く手紙を開けて読まれて、返信をしたためられて、使者に渡して帰らせた。

 

手紙の内容は、大泊瀬幼武命曰く、
「今日、佐々紀山君韓袋が来て、「倭(やまと)山連峰の北の麓に猪・鹿・雉ほかの鳥がたくさんいます。」と言いました。私はそんなにたくさんの獣や鳥がいるときくのは初めてなので、狩りをしてみたい。あなたもいかがですか?  もし賛成ならご一緒したいのですが」

 

市辺宮宅は大泊瀬幼武命に企みがあるのを知らず、本当だと信じて直ぐに返事をした。
「この度計画なさった狩猟は、随分と遠くで、大掛かりになるので、私はこのような大規模な狩猟を試みたことはなく、ただ慰みに狩猟をしていました。

この時期、夜は秋の気配も漂い涼しいのですが、遠出になるため、明日、申の上刻に邸を出発して、明後日の卯の上刻に目的の狩猟地でお会いしましょう」

という内容の返答をし、使者に渡したため、大泊瀬幼武尊の陰謀に加担した一族郎党は、小躍りして喜びに溢れた。

<ご参考>

干支と時刻
子…………23時〜1時……0時…九つ
丑…………1時〜3時 ……2時…八つ
寅…………3時〜5時 ……4時…七つ
卯…………5時〜7時 ……6時…六つ
辰…………7時〜9時 ……8時…五つ
巳…………9時〜11時 …10時…四つ
午…………11時〜13時…12時…九つ
未…………13時〜15時…14時…八つ
申…………15時〜17時…16時…七つ
酉…………17時〜19時…18時…六つ
戌…………19時〜21時…20時…五つ
亥…………21時〜23時…22時…四つ

真澄探当證1. 安康天皇 暗殺 眉輪王の変

真澄探当證1. 安康天皇 暗殺 眉輪王の変 

 

A.D.444年 甲申(きのえさる)八月五日申の下刻(午後四時ごろ)、今上天皇(穴穂尊・安康天皇)が眉輪王のため、殺害なされた。

 

弟宮の大泊瀬幼武命(おおはつせわかたけるのみこと、後、21代、雄略天皇)が急報で駆けつけ、現場を視察して群臣と協議し、大泊瀬皇子は日頃から昵懇にしている臣下二三人を集め、密かに談合し、天皇の崩御を隠匿することにした。

 

安康天皇は、20代天皇で、19代允恭天皇の第一皇子である故に、20代天皇として即位なさったために、安康天皇と諡した。
眉輪王は仁徳天皇(16代)第五皇子の庶子、大草香(おおくさか)皇子の第一の王(息子)である。

干支と時刻
子…………23時〜1時……0時…九つ
丑…………1時〜3時 ……2時…八つ
寅…………3時〜5時 ……4時…七つ
卯…………5時〜7時 ……6時…六つ
辰…………7時〜9時 ……8時…五つ
巳…………9時〜11時 …10時…四つ
午…………11時〜13時…12時…九つ
未…………13時〜15時…14時…八つ
申…………15時〜17時…16時…七つ
酉…………17時〜19時…18時…六つ
戌…………19時〜21時…20時…五つ
亥…………21時〜23時…22時…四つ

参考に
<< 眉輪王の変 >>
眉輪王(まよわのおおきみ、允恭天皇39年(450年) – 安康天皇3年(456年)8月)は、記紀に伝えられる5世紀頃の皇族(王族)。目弱王とも。(注 真澄探當證は眉輪王の変は444年としている)

父は大草香皇子(おおくさかのみこ。仁徳天皇の皇子)、母は中蒂姫命(なかしひめのみこと。履中天皇の皇女)。

記紀によれば、父の大草香皇子が罪無くして安康天皇に誅殺された後、安康天皇元年、根使主の讒言を信じて大草香皇子(仁徳天皇の皇子)を誅殺し、翌年にその妃であった中蒂姫を皇后に立てた。

同3年8月9日、天皇は中蒂姫の連れ子眉輪王により暗殺された。『古事記』『旧事紀』に享年56、『帝王編年記』に享年54と伝えられる。

母の中蒂姫命は安康天皇の皇后に立てられ、眉輪王は連れ子として育てられた。安康天皇3年(456年)8月、年幼くして(記に7歳とする)楼(たかどの)の下で遊んでいた王は、天皇と母の会話を残らず盗み聞いて、亡父が天皇によって殺されたことを悟り、熟睡中の天皇を刺殺する(眉輪王の変)。その後、坂合黒彦皇子と共に円大臣の宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の兵に攻められ、大臣の助命嘆願も空しく、諸共に焼き殺されたという(ウィキより)

 

真清田神社の三宮明神

真清田神社の三宮明神

 

真清田神社の写真の追加です。せっかくですので載せておきます。

真清田神社の三宮明神さわりです。

 

真澄探當證では、放生会をした時に、鳩が鳥居に止まって、それから「鳥居」というようになったとか・・・本当かどうかは知りませんが。。。鳥居はこの外にあります。

御太鼓橋もあって、昔は亀とか鯉がいるのが見えたのですが、蓋がかぶせられています。

鯉や亀はどうなったのでしょうか?社内の池とつながっているのでしょうか・・

楼門

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前は「水飲み会」だったような気がするのですが、きのせいかしらん???

随分と名前がグレードアップしたような・・・

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どんどん立派になっていきます。

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覗き込んで、顔を写してくださいと書いてありました。一応、うつりました

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拝殿

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服部神社

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服部神社の右手の犬飼社 犬飼社は海神系のようです。住吉三神(中筒男神, 表筒男神, 底筒男神)と犬飼神(おそらくは犬飼明神こと高野明神)、それと手力男とペア?の菊理姫
愛鷹社 愛鷹(あしたか)社 ここに瀬織津姫もいます。

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愛鷹社に同居しているのは「瀬織津姫命,息吹戸主命,速秋津姫命,速佐須良姫命,木花咲屋姫命」です。
ですので、瀬織津姫は三宮明神でも真清田神社の主祭神でもないです。
瀬織津姫も息吹戸主命も丹生都姫のまたの名で、速秋津姫命,速佐須良姫命も祓い戸の神、つまり「戸を開けた」神です。木花咲屋姫命も隼人です。
愛鷹・足高は賀茂大神のことだと思いますので、賀茂大神と祓い戸の神ということでしょうか。

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天神社  そう、金網で囲ってあるんです。鳥よけでしょうか? うまく写真も撮れませんでした。

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鶏網で囲われています。
この右の小山の木陰で烏骨鶏さんや鶏さんたちが涼んでいました。
小山の上には素戔嗚社、愛宕社、秋葉社

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真澄探當證による御裳神社(愛知県一宮市)の由来

真澄探當證による御裳神社(愛知県一宮市)の由来

2015年8月24日 @ 20:36

 

以前、御裳(母)神社 (愛知県一宮市) の写真など紹介いたしました。

「真澄探當證」を読んだらその由来がわかりました。衣とお母さん(地元のおばさん?)に関係してました。

 

御裳神社はお正月でも人はぽつぽつです。

織姫祭りも行われています。織姫さまのパレードが実家の前を通ります。

最近は紫陽花が植えられて紫陽花祭が行われるようになりました。

かなり人間味あふれる由来でした。

ヤマトタケルとも、カグツチとも関係なさそうです。

お母さんと「裳」が神社名に入っているのは・・・

お母さんと着物に由来がありました。

 

むかーしむかし、雄略天皇の暗殺から逃れるため、母宮の兄の尾張一宮の神主を頼って尾張一宮に隠れ住んでいた二皇子の兄皇子  億計(おけ)王が、めでたく皇太子として、倭(やまと)に迎えられることになりました。

その時に地元民はお見送りしようとして、夜、寒い中をずっと待っていました。

すっかり冷えてお腹が痛くなって、転げ回っている地元の「おくら」おばあさんを馬上から見た後の仁賢天皇は気の毒がって、自分の着物とお茶を差し出しました。

暖かい着物とお茶でおくらお婆さんが回復した記念に「痛くら」と名付けました。

痛い「くら婆さん」・・・・

おくらお婆さんと地元民は感激しました。

仁賢天皇の崩御の後に、御裳神社を建立しました。

御裳神社の場所は、むかし起町大字板倉でした。現在は一宮市三条宮西1145です。

あまりロマンチックではないですが、人情あふるる由来です。

真澄探当證の入手方法

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「真清探當證」と薄墨桜  2015/04/03

 

真澄探当證の入手方法

 

身の代と遺す桜は薄住よ 千代に其名を栄盛へ止むる         継体天皇

 

真澄探當證が復刻されました。


「真清探當證 復刻版」 田中豊編

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有限会社人の森様

メール: info@hitonomori.com

 

今まで、古書があまりに高価で、手が出せなかったので、嬉しいです。

他にAmazonで入手出来て内容がわかる古書はこれです。

 

今から1500年ほど前、雄略天皇に父を殺害された億計王(第 24 代仁賢天皇)と弘計王(第  23 代顕宗天皇)の兄弟は真清田神社神主である叔父を 頼って、母の在所である丹波から尾張一宮へと落ち延びました。

二人と一行は農業などをしながら、隠れ住みます。

 

やがて、弘計王と豊媛の間に男大迹(後第 26 代継体天皇)が誕生。
乳母夫妻(後の物部氏の祖)とともに岐阜県の根尾村に隠れ住みました。

後に男大迹王は都へ迎えられて 継体天皇として 即位。根尾村を去るにあたり、真清田神社で献納を受けた桜木をお手植えし御歌を詠まれました。

「身の代と遺す桜は薄住  (うすずみ )よ 千代に其名を栄盛へ止むる」と。

これが、「うすずみ桜」の由来と言わています。

 

根尾の薄墨桜と継体天皇参照
http://ichinomiyadaigaku.com/pdf/15-03-28masumitantosyo2.pdf

こちらから薄墨桜のライブ映像が見えます
http://www.city.motosu.lg.jp/sight/live/

 


 

 

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