真澄探当證1. 安康天皇 暗殺 眉輪王の変
A.D.444年 甲申(きのえさる)八月五日申の下刻(午後四時ごろ)、今上天皇(穴穂尊・安康天皇)が眉輪王のため、殺害なされた。
弟宮の大泊瀬幼武命(おおはつせわかたけるのみこと、後、21代、雄略天皇)が急報で駆けつけ、現場を視察して群臣と協議し、大泊瀬皇子は日頃から昵懇にしている臣下二三人を集め、密かに談合し、天皇の崩御を隠匿することにした。
安康天皇は、20代天皇で、19代允恭天皇の第一皇子である故に、20代天皇として即位なさったために、安康天皇と諡した。
眉輪王は仁徳天皇(16代)第五皇子の庶子、大草香(おおくさか)皇子の第一の王(息子)である。
干支と時刻
子…………23時〜1時……0時…九つ
丑…………1時〜3時 ……2時…八つ
寅…………3時〜5時 ……4時…七つ
卯…………5時〜7時 ……6時…六つ
辰…………7時〜9時 ……8時…五つ
巳…………9時〜11時 …10時…四つ
午…………11時〜13時…12時…九つ
未…………13時〜15時…14時…八つ
申…………15時〜17時…16時…七つ
酉…………17時〜19時…18時…六つ
戌…………19時〜21時…20時…五つ
亥…………21時〜23時…22時…四つ
参考に
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眉輪王(まよわのおおきみ、允恭天皇39年(450年) – 安康天皇3年(456年)8月)は、記紀に伝えられる5世紀頃の皇族(王族)。目弱王とも。(注 真澄探當證は眉輪王の変は444年としている)
父は大草香皇子(おおくさかのみこ。仁徳天皇の皇子)、母は中蒂姫命(なかしひめのみこと。履中天皇の皇女)。
記紀によれば、父の大草香皇子が罪無くして安康天皇に誅殺された後、安康天皇元年、根使主の讒言を信じて大草香皇子(仁徳天皇の皇子)を誅殺し、翌年にその妃であった中蒂姫を皇后に立てた。
同3年8月9日、天皇は中蒂姫の連れ子眉輪王により暗殺された。『古事記』『旧事紀』に享年56、『帝王編年記』に享年54と伝えられる。
母の中蒂姫命は安康天皇の皇后に立てられ、眉輪王は連れ子として育てられた。安康天皇3年(456年)8月、年幼くして(記に7歳とする)楼(たかどの)の下で遊んでいた王は、天皇と母の会話を残らず盗み聞いて、亡父が天皇によって殺されたことを悟り、熟睡中の天皇を刺殺する(眉輪王の変)。その後、坂合黒彦皇子と共に円大臣の宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の兵に攻められ、大臣の助命嘆願も空しく、諸共に焼き殺されたという(ウィキより)
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