御馬皇子、市辺押磐尊救助のため後を追う
市川老人より事情聴取した御馬皇子は、なお一層合点が出来ず、
たとえ親戚筋であっても不審な点が多く、もしや大泊瀬幼武命に反逆の意図があり謀略があると、脳裏に浮かんだため、俄かに顔色が変わって、合点がいき、声を荒げて「馬を引け」とご下命があり、
老人が問うたのは「何事が起こったのですか」ということで、
皇子は「これは容易ならざる重大事で、このままだと兄宮が危険だ」と宮宅の人にも断りなく、なげしにかけてあった槍と弓箭、箙(注)を身に付けて、そのまま馬にまたがって、馬の横腹を蹴り、出発なさった。
この時市川大臣を初めとして、臣下一同お供いたしたいと宮に申し上げた。
御馬皇子がおっしゃるには、
「お前たちを従者として伴ったら、遠路で遅れる恐れがあり、危機に瀕しなさっている兄宮が敵兵にかかり斃れなさったなら、詮なきことだ」
と市辺押磐宮の臣下一同が諌めるのも聞き入れなさらずに、槍を小脇に抱えて駆け出しなさった。
この時、御馬皇子が急に単身で御出立なさったのは、同伴者が大泊瀬幼武命だと聞いたからで、今上天皇は殺害されなさって変死された。
噂になっているのにこれを秘密にして隠匿して、あまつさえわが兄宮を狩猟に事寄せ、油断させて誘拐し、暗殺を企てる意図があるのは間違いなし。
次の天皇は、わが兄より他に天皇の御位を継ぐ道はないので、一人御馬皇子は早朝に従者もなく、単独でご訪問され、
ことに御馬皇子と市辺押磐尊はご兄弟の仲睦まじく、ただ兄宮さま、兄宮さまとお慕いして、また市辺押磐尊は何事も弟宮の御馬皇子にご相談なさる間柄で、相談しなかったことは一度もなかったのに、
今回初めて御馬皇子にご報告もなく、無断で御出立なさったので、弟宮として、親戚筋の大泊瀬幼武命に謀られて、みな亡くなってしまったかと、思った御馬皇子は少しの余裕もなく(ご出立なさったのは)至極当然のことである
この時、御馬皇子は御乗馬に跨り、一鞭あてて、狩場目指して進んでおられた。
この時、御馬皇子が単身ご出立なさったのは、相手方の同伴者が大泊瀬幼武命だと聞いたからで、昨日、今上天皇が変死なさったという報を聞いて、次の天皇は兄宮だと信じて、故に弔いの公布が遅いので不審に思い、
このため兄宮と協議して、弔問のお見舞いの相談に先触れもなく訪れたのに、今の兄の猟友が大泊瀬幼武命と聞いて驚いた。
これは実の兄である天皇の暗殺にあったというのに、その弟宮の大泊瀬幼武命が狩猟とは合点がいかない。
何か腹に一物の隠し事をしていると察して、さては天皇位を奪い継承する目的のため、兄宮を誘拐して暗殺する計画を企てたと感じ取った。
疾風や速き矢のごとく、瞬時に乗馬で飛ぶように駆けてきた道に二股に分かれる場所があった。
ここで一人の農夫に遭って、お問いになった。「市辺押磐尊が狩りに行かれたのはどちらか」と。
農夫は答えて
「お尋ねの市辺押磐宮主従は、昨晩ここをお通りになり、今朝未明に大泊瀬幼武命と合戦が狩場であって、市辺押磐宮主従は襲撃に遭遇されて、一族は惨殺され全滅して、このことは噂でここら一帯では、これは騙し討ちにあったと専らの大騒ぎになってます。」
つぎに農夫が重ねて言うには、
もう今頃は狩場より東南におよそ一里(約4km)ほど距離がある場所に軍勢も引き揚げ、目下凱旋の準備をしているという噂で、西の辺りで聞いたことを物語った。
この時、御馬皇子は農夫に一部始終の噂を聞き、推察していたとおりに、謀略にあって殲滅したかと凄まじい怒りの色を表して、道を転じて右折して進んでいかれた。故にこの土地を後に、馬場(奈良県都祁村)と名付けた。
(注)箙 えびら、弓を背負う道具、矢筒 (図はウィキペディアより拝借)

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