真澄探当證 9 近江商人は市辺押磐皇子主従を背負い逃げる
二名の商人は死んだも同然の市辺押磐皇子主従の近くにより、負傷と生きているか死んでいるかをみたとろこ、まだ生きており、命を保っていたが、矢傷は深手であった。
だけど連れて逃げて、介抱したら、蘇生するだろうと思い、
幸い敵兵がいないのを確認して、この合間に主従を背負い、外部からは近江筵(注1)で負傷者を隠して、荷物を背負うように装って、旅の商人のように身支度を調えて、この危険な場所から避難した。
今までこの乗馬は敵兵を追い散らしていた勢いを失い、この商人たちがなすままにさせていたけど、敵兵を見張り、商人たちを守ることは怠りなく、以前のように周りを守護していた。
しかし市辺押磐皇子を背負い、上半身が隠れる際に、宮の冠がとれたのを乗馬は素早く冠を加え、いずことなく立ち去った。
この時四方より走り集まる敵兵の中を市辺押磐皇子主従を背に乗せたまま、切り抜ける武術は素晴らしく天晴れ豪傑であった。
敵兵が群がる中を首尾よく切り抜け、本国を目指して帰る道すがら、追っての兵を恐れて、方向を変え道を方角を東北に行くところを、西北目指して遁走した。
これより先に、市辺押磐尊の家臣の従者で、勇敢にも敵の大群の中を切り抜け、尊の命令を守り、遺言を伝える目的で、この時、尊の命を助けてくれる人を大声で呼び、田舎の人に同意を求め、この従者の声を聴いて出てきて加わった村人は、どんな訳でこうなったか、場所は何処かなど詳細を訪ね、宮の従者はあったことをに詳しく語った。
(注1) 近江筵
畳表のことのようです。昔は畳は貴人しか使えませんでした。奈良時代から近江地方ではイグサの栽培がおこなわれていたようです。真澄探當證に書いてあると言うことは、古墳時代にもイグサの栽培が近江地方で行われていたのでしょうか?
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