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『真澄探当證』は雄略天皇から逃れた億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)の兄弟が真清田神社神主の叔父を頼って尾張一宮へ亡命し、弘計王と豊媛の間に男大迹(継体天皇)が誕生。乳母夫妻(後の物部氏の祖)とともに岐阜県の根尾村に隠れ住み、後に都に迎えられ継体天皇として即位するまでのお話です。 真澄探当證ゆかりの神社や土地などを訪ねたりします

真澄探当證11 御馬皇子の市辺押磐皇子宅訪問

真澄探当證11 御馬皇子の市辺押磐皇子宅訪問

 

西暦444年、甲申(きのえさる)八月八日の未明の午前五時ごろ、

現在の乙木村(おとぎむら) に住む御馬皇子は、従者もつれず、お一人で御乗馬にて住み慣れた宮宅より、

兄の市辺押磐皇子邸に内密の用があって訪れ、取次は誰かいないか呼んだ。

 

この内々の秘密の用件は、昨夜今上天皇の安康天皇の事で、天皇は突然、暗殺されたことを秘密のままにして、

発表がないのを知っている人がいると言う噂が盛んに流れているのを聞き知り、兄宮に相談の上で、弟である宮は見舞いなどするべきかとの相談する必要があって兄宮宅を訪問したのだった。

 

 

夜の明けきらぬうちに、突然従者も連れないで、十町(注1約1.1km)余り隔たった乙木村から内山まで、単独で宮は訪問した。

この時、市辺押磐皇子邸には何の先触れもなく、突然の弟宮のご来邸に驚き、出迎え役の市川大臣は御馬皇子を出迎えて、奥殿に案内申し上げた。

 

市川大臣は御馬皇子が単独でご来訪されたご用の趣きを承りたいと宮に申し上げた。

御馬皇子が仰るには

「兄宮に秘密の相談をするために来たので、一人で早朝にこちらを来訪した」と言うことを内々におっしゃった。

この気安い挨拶の理由は、市辺押磐皇子と御馬皇子、青海皇女(おうめ皇女)ご兄弟三の宮とも、父履中天皇の御崩御の砌は、幼かったので、ことに御馬皇子はまた乳呑み児同様の幼児で、ご兄弟三人とも市川大臣がご担当し、御養育申し上げた間柄のため、いつも宮さまたちは市川大臣を指して、「叔父、叔父」とお呼びになっていた。

 

このような間柄である故に、実父にものを言うよりなお一層心安く、宮宅の繋がりにおいては、親戚ぐるみで仲良くしていた。しかし兄宮の姿が見えないので不思議に思い、御馬皇子は詳しい事情をお尋ねになった。

この時、市川大臣が答えて申しあげるには、

「誠にお知らせもせず、何ともお答えいたし難く、このことはこの老人の手落ちであると、お詫び申し上げます」と謝罪し、許しをこう有様は、平身低頭にて、ご挨拶申し上げるのであった。

 

町(注1)

1町は約109mなので、10町で約1.1kmくらい

真澄探当證10 村人は市辺押磐皇子主従の遺体を捜索

真澄探当證10 村人は市辺押磐皇子主従の遺体を捜索

 

この時参加し、市辺押磐皇子の命を助けるのが姥久手の多くの村人は、負傷兵が語る通りに戦場に赴き、市辺押磐皇子主従の遺体を各所捜索中に、殲滅した宮宅従者の遺体がここかしこに散在していた。

たた、不思議なのは、市辺押磐尊および侍従長の佐伯部売輪(さえきべのうるわ)の遺体が判明しないので、敵兵が奪取していったか、いち早く遁れて去ったか、生死不明だと思った。

 

伏拝村と助命村と名称

だか、田舎人は、遺棄してあった遺体を全部集めて、よく主に尽くして戦死を遂げた士卒であるので、懇ろに埋葬をした。ここにおいて、さきにここに宮宅を伏拝み、懇ろに葬式を行った村を伏拝村(ふしおがみむら)と名付け、この地を助命村(ぜみょうむら)と名付けた。これは村の勇敢なものが全員で、宮宅主従の一命を助ける目的で馳せ参上したという意味合いに基づいて、この名を付けた。現在の大和国(奈良県)山辺郡伏拝村と助命村のことである。

真澄探当證9 近江商人は市辺押磐皇子主従を背負い逃げる

 真澄探当證 9 近江商人は市辺押磐皇子主従を背負い逃げる

 

二名の商人は死んだも同然の市辺押磐皇子主従の近くにより、負傷と生きているか死んでいるかをみたとろこ、まだ生きており、命を保っていたが、矢傷は深手であった。

だけど連れて逃げて、介抱したら、蘇生するだろうと思い、

幸い敵兵がいないのを確認して、この合間に主従を背負い、外部からは近江筵(注1)で負傷者を隠して、荷物を背負うように装って、旅の商人のように身支度を調えて、この危険な場所から避難した。

 

今までこの乗馬は敵兵を追い散らしていた勢いを失い、この商人たちがなすままにさせていたけど、敵兵を見張り、商人たちを守ることは怠りなく、以前のように周りを守護していた。

 

しかし市辺押磐皇子を背負い、上半身が隠れる際に、宮の冠がとれたのを乗馬は素早く冠を加え、いずことなく立ち去った。

 

 

この時四方より走り集まる敵兵の中を市辺押磐皇子主従を背に乗せたまま、切り抜ける武術は素晴らしく天晴れ豪傑であった。

敵兵が群がる中を首尾よく切り抜け、本国を目指して帰る道すがら、追っての兵を恐れて、方向を変え道を方角を東北に行くところを、西北目指して遁走した。

 

 

これより先に、市辺押磐尊の家臣の従者で、勇敢にも敵の大群の中を切り抜け、尊の命令を守り、遺言を伝える目的で、この時、尊の命を助けてくれる人を大声で呼び、田舎の人に同意を求め、この従者の声を聴いて出てきて加わった村人は、どんな訳でこうなったか、場所は何処かなど詳細を訪ね、宮の従者はあったことをに詳しく語った。

 

(注1) 近江筵

畳表のことのようです。昔は畳は貴人しか使えませんでした。奈良時代から近江地方ではイグサの栽培がおこなわれていたようです。真澄探當證に書いてあると言うことは、古墳時代にもイグサの栽培が近江地方で行われていたのでしょうか?

真澄探当證8 近江の国の商人が市辺押磐皇子主従を助ける

 真澄探当證8 近江の国の商人が市辺押磐皇子主従を助ける

 

この時、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)主従は、予定通り市辺押磐皇子主従を惨殺して、

目的を達したといえども、今だに市辺押磐皇子と侍従長の佐伯部売輪(さえきべのうるわ)らが生死不明のため、

ここかしこと捜査中に、ついに主従が深手の傷を負い、そのまま倒れているのを発見して、大いに喜び、主従の首を刎ねて持参するより、そのまま体ごと拉致しようと、包囲したところに、

逃げた市辺押磐皇子の乗馬が駆け戻って、包囲していた敵兵めがけて蹴り飛ばす勢いで、実に優れた勇将も及ばぬ唯一無二の働きをして、これに困った大泊瀬幼武尊の臣下群臣兵卒は、市辺押磐皇子主従を捨ててそのまま退散した。

この時、ご乗馬は主をもう奪い去ろうとする時に、猛烈に敵兵を追いちらし、続いて主従の傍らにぐるっと周りを囲んで守護することは、以前のごとくで、四方を眺めて守護に余念がなかった。

 

この有様を見ていて、馬のあとをつけてきた近江商人らは非常に感心して、

獣といえども主に尽くす忠孝は普通の人が及ぶところにあらず。

ならばこの乗馬の主人は、この負傷者であろうと話しつつ、しかし旅の商人は皇子であるのを知らず、ただ種々の装飾品が見事であるので、相当に名のある武将であろうと想像して、

もしや我らがこの土地を遁れて、自分達の本国で介抱して養生させれば、蘇生して回復し、再度また戦えるようにもなろうと、二人は共に皇子たちを助けようと決心した。

真澄探当證7 市辺押磐宮の御馬と近江商人

真澄探当證7 市辺押磐宮の御馬と近江商人

 

 

この時、市辺押磐宮命が御落馬あそばされるや否や、

宮の御乗馬は何を思ったのか、そのまま主人の宮を置いてそのまま何処かにかけていってしまった。

 

ここで不思議なのは、倭の国より近江の国に通じる往還街道があって、

その往還街道を二名の旅の商人が通行中で、

この商人らは近江の国の住人で、倭国に商用に行き、今商売が済んで帰る途中で、

この地に差し掛かるやいなや、市辺押磐宮命の御乗馬がそのまま逃げて来て、

あちこち彷徨って、ようやくこの土地に訪ね来たところで、

 

この旅の商人が往還街道を通行中に、旅人の着物の裾を咥えて異様な嘶きをするので、

旅人たちは何か起こったと推測して、

二人の商人は相談の上、乗馬が行くところに後ろから着いていくことにした。

 

真澄探当證6 市辺押磐皇子主従、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)により殲滅 従者の一人が君命を守り敵中を切り抜け血路を開いて遁走

 市辺押磐皇子主従、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)により殲滅

従者の一人が君命を守り血路を開いて遁走


この時、従者の一人が市辺押磐皇子の君命を守り、大勢の敵中を切り抜け、血路を開いて遁走した。

この者は市辺押磐宮宅の従者の中でも有名な屈強の若者で、武芸に秀で、勇敢であるのは並ぶものなく、天晴にもこの豪傑は、身に数十か所の負傷を負ったにもかかわらず、大勢の敵を切り抜け、主君の命令を守りとげようと必死になって、戦場をしばらくして切り抜ければ、ここかしこに敵の騎兵の群れもいて、伏兵もいたが、ここまで来るともう敵の姿は無く、安全な場所だと思えるので、この若者は、落ち着いて主君のいる方角を再三再四伏し拝んで、今生の別れを告げ、ようやく次の村落に辿り着き、村人に

「私は市辺押磐宮宅の臣下です。宮宅の主従は大泊瀬幼武尊の逆襲に遭って、もはや殲滅したも同じこと。村人よ、直ちに市辺押磐皇子の元に馳せ参じ、加勢してくだされば、宮宅の主従は助かることもあるかもしれません。何卒、なにとぞ、宮さまたちの御命をお助けください。」

としきりに嘆願をし、「助命、助命」と呼び叫んだ。

この時村人たちは異様な声で助けを呼び、走り回る舎人の悲嘆に驚き集まって来るものが大勢いた。

真澄探当證5.市辺押磐皇子主従、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)により殲滅

真澄探当證5.市辺押磐皇子主従、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)により殲滅

 

大泊瀬幼武尊(雄略天皇)たち一行は、市辺押磐皇子主従の様子を探り、

大泊瀬幼武尊の従者は市辺押磐皇子の出発をいち早く大泊瀬幼武尊に注進したので、

この報告に接するや否や、大泊瀬幼武尊は俄かに、兵士達を激励し、

市辺押磐皇子主従が到着したらすぐに襲撃をかけ、圧倒し木端微塵に打ち砕こうと、かねてより計画した予定地に陣をしいて、準備万端調えていた。

 

このような険悪な謀略が企てられているとは知る由もない市辺押磐皇子主従は、

約束通り暁方に間近い時間に予定地に向けて進んでいた途中に、素早いスピードで射る矢を一斉にいられ、

まさに百の雷に撃たれたように、瞬く間に討ち死にする者が多く、

この時市辺押磐皇子は、大泊瀬幼武尊の謀略に陥ったことを初めて悟り、

乗馬のままあたう限りの大声で臣下たちに向かって

 

「予は大泊瀬幼武尊の計略に陥った。このままでは殲滅するだろう。

お前たちのうち誰でも、この場を遁れて早く我が邸内に状況を報告せよ」

 

と声を限りにお叫びになった。

 

この時四方から射かける矢が早いので、臣下一同は主の身が危険にされされているため、

「御下馬なさいませ」と宮様に奏上する声が、臣下一同より続いていた。

 

しかし、市辺押磐皇子は、この時に敵の矢に当たり、ご落馬なさった。

この時、臣下の佐伯部売輪は急いで駆け付け、皇子を抱いて、そのまま背負って、敵前より避難しようとしたが。

四方より矢を射かけられる強い矢や遠くからの矢は数限りなく、

かつ今回は狩猟が目的であったために、武装もしておらず、ご親戚とお会いになるというので、

気楽な遊びの心持でいたため、突然の襲撃に遭って、

このような謀略の企てがあるのは前々から計画していたのだと、初めて悟ったのだった。

 

市辺押磐皇子主従はよく防戦し、よく戦ったが、矢尽き、多勢に無勢で対するは困難であり、

終に殲滅させられ、惨殺されたのであった

真澄探当證4. 市辺押磐皇子主従、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)により殲滅

真澄探当證4. 市辺押磐皇子主従、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)により殲滅

 

A.D.444年 甲申(きのえさる)八月七日、午後三時ごろ、

市辺押磐皇子は弓箭、箙まで全て替えのものを含めて身に着け、

宮さまには頭に長烏帽子冠に、狩衣装束を召され、ごく軽装のいでたちで、

従者の総取締に佐伯部売輪(さえきべのうるわ)を主として、

舎人の内でも屈強のもの数十人を選抜して、御出発なさって、

今日の夜の九時ごろまでに予定地の四キロほど手前まで到着した。

 

 

しかし、明日の明け方に会う約束であったので、四キロほど手前で露営することにした。

 

この時近隣の田舎の人が誰が言うでもなく、宮さまが狩りのお越しなさったと騒いでいるうちに、

多くの氏族の人達が遠路はるばるお越しのお見舞いかたがた集まってきた。

 

でも何か献上する物はと色々考えても、何分にも突然のおなりなので、

どうしようもなくて、暑気払いとして、各所に貯蔵してある籾を取り出して、湯が沸騰している中に投入して、

甘酒を作って、市辺押磐皇子主従に奉ったので、

主従みなの喜びは一方ならぬもので、それを飲んで満腹になったのであった。

 

蚊帳野の由来

この時、もう夜も更けてきたので、蚊の群れが襲って来て、追い払うのが大変であった。

それでやむを得ず農家に依頼して、蚊帳を借りて集めてもらい、

この野原に柱の代わりに支柱代わりの竹をたてて、ここに蚊帳をつり、

明け方の四時ごろまで露営宿泊することにして、市辺押磐皇子主従は床に就いた。

 

この時、野原に蚊帳を吊ったので、後世、この地を蚊帳野と呼ぶことがあった。

 

的野(まとの),待居村,松尾村の由来

同日、泊瀬幼武尊主従は、市辺押磐皇子主従の動向を探り、謀略で奇襲するために、

二キロ隔てたところに陣を構え、露営して待っていた。

 

この時蚊野に宿泊の市辺押磐皇子を目的に待っていたので、後世、的野(まとの)という。

また、一名、この地に大泊瀬幼武尊一族が待っていたので、待居村と名をつけた。

後に松尾村と改称した。

 

 

A.D.444年 甲申(きのえさる)八月八日の夜明けの四時ごろに、

市辺押磐皇子主従は付近の田舎の農民に対して、いたく昨夜お世話になったことのお礼を言って、出発した。

市辺押磐皇子は、第十七代履中天皇の第一皇子である。

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