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『真澄探当證』は雄略天皇から逃れた億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)の兄弟が真清田神社神主の叔父を頼って尾張一宮へ亡命し、弘計王と豊媛の間に男大迹(継体天皇)が誕生。乳母夫妻(後の物部氏の祖)とともに岐阜県の根尾村に隠れ住み、後に都に迎えられ継体天皇として即位するまでのお話です。 真澄探当證ゆかりの神社や土地などを訪ねたりします

真澄探当證2.大泊瀬幼武命 (雄略天皇) の陰謀

真澄探当證2 大泊瀬幼武命 (雄略天皇) の陰謀

 

A.D.444年 甲申(きのえさる)八月六日辰の上刻

 

大泊瀬幼武命(おおはつせわかたけるのみこと)は平常のごとくよそおい、帳内(とねり・舎人)に命じて、市辺押磐皇子(いちのべおしはおうじ)に書簡を出した。

 

大泊瀬皇子は武勇に優れた臣下に、

「私の兄天皇が襲われ崩御されたので、私は天皇になることは出来ない。第一候補は履中天皇(17代)の皇子、市辺・御馬の二皇子がいる。第二候補は反正天皇(18代)の遺児がいる」とおっしゃった。

それで奸智に長けた臣下は協議し、市辺皇子を誘拐することにした。この機に乗じて手紙をしたためた。
文面は不明

 

大泊瀬皇子の帳内(家来、配下)は、手紙を入れた書箱を持ち、市辺押磐皇子邸に参上し、手紙であることを申し上げ、御返答をお願いしますと奏上した。

 

宮宅の取次は、皇子に詳しく申し上げ、手紙をお渡しした。

返答を待っているので、普段は市辺宮顧問の市川大臣が全て指揮するのが通例だが、この時は市川老人の姿が見えないので、大泊瀬皇子とは親戚の間柄で、市川大臣がいなくても、いとこであるので、気安く手紙を開けて読まれて、返信をしたためられて、使者に渡して帰らせた。

 

手紙の内容は、大泊瀬幼武命曰く、
「今日、佐々紀山君韓袋が来て、「倭(やまと)山連峰の北の麓に猪・鹿・雉ほかの鳥がたくさんいます。」と言いました。私はそんなにたくさんの獣や鳥がいるときくのは初めてなので、狩りをしてみたい。あなたもいかがですか?  もし賛成ならご一緒したいのですが」

 

市辺宮宅は大泊瀬幼武命に企みがあるのを知らず、本当だと信じて直ぐに返事をした。
「この度計画なさった狩猟は、随分と遠くで、大掛かりになるので、私はこのような大規模な狩猟を試みたことはなく、ただ慰みに狩猟をしていました。

この時期、夜は秋の気配も漂い涼しいのですが、遠出になるため、明日、申の上刻に邸を出発して、明後日の卯の上刻に目的の狩猟地でお会いしましょう」

という内容の返答をし、使者に渡したため、大泊瀬幼武尊の陰謀に加担した一族郎党は、小躍りして喜びに溢れた。

<ご参考>

干支と時刻
子…………23時〜1時……0時…九つ
丑…………1時〜3時 ……2時…八つ
寅…………3時〜5時 ……4時…七つ
卯…………5時〜7時 ……6時…六つ
辰…………7時〜9時 ……8時…五つ
巳…………9時〜11時 …10時…四つ
午…………11時〜13時…12時…九つ
未…………13時〜15時…14時…八つ
申…………15時〜17時…16時…七つ
酉…………17時〜19時…18時…六つ
戌…………19時〜21時…20時…五つ
亥…………21時〜23時…22時…四つ

真澄探当證1. 安康天皇 暗殺 眉輪王の変

真澄探当證1. 安康天皇 暗殺 眉輪王の変 

 

A.D.444年 甲申(きのえさる)八月五日申の下刻(午後四時ごろ)、今上天皇(穴穂尊・安康天皇)が眉輪王のため、殺害なされた。

 

弟宮の大泊瀬幼武命(おおはつせわかたけるのみこと、後、21代、雄略天皇)が急報で駆けつけ、現場を視察して群臣と協議し、大泊瀬皇子は日頃から昵懇にしている臣下二三人を集め、密かに談合し、天皇の崩御を隠匿することにした。

 

安康天皇は、20代天皇で、19代允恭天皇の第一皇子である故に、20代天皇として即位なさったために、安康天皇と諡した。
眉輪王は仁徳天皇(16代)第五皇子の庶子、大草香(おおくさか)皇子の第一の王(息子)である。

干支と時刻
子…………23時〜1時……0時…九つ
丑…………1時〜3時 ……2時…八つ
寅…………3時〜5時 ……4時…七つ
卯…………5時〜7時 ……6時…六つ
辰…………7時〜9時 ……8時…五つ
巳…………9時〜11時 …10時…四つ
午…………11時〜13時…12時…九つ
未…………13時〜15時…14時…八つ
申…………15時〜17時…16時…七つ
酉…………17時〜19時…18時…六つ
戌…………19時〜21時…20時…五つ
亥…………21時〜23時…22時…四つ

参考に
<< 眉輪王の変 >>
眉輪王(まよわのおおきみ、允恭天皇39年(450年) – 安康天皇3年(456年)8月)は、記紀に伝えられる5世紀頃の皇族(王族)。目弱王とも。(注 真澄探當證は眉輪王の変は444年としている)

父は大草香皇子(おおくさかのみこ。仁徳天皇の皇子)、母は中蒂姫命(なかしひめのみこと。履中天皇の皇女)。

記紀によれば、父の大草香皇子が罪無くして安康天皇に誅殺された後、安康天皇元年、根使主の讒言を信じて大草香皇子(仁徳天皇の皇子)を誅殺し、翌年にその妃であった中蒂姫を皇后に立てた。

同3年8月9日、天皇は中蒂姫の連れ子眉輪王により暗殺された。『古事記』『旧事紀』に享年56、『帝王編年記』に享年54と伝えられる。

母の中蒂姫命は安康天皇の皇后に立てられ、眉輪王は連れ子として育てられた。安康天皇3年(456年)8月、年幼くして(記に7歳とする)楼(たかどの)の下で遊んでいた王は、天皇と母の会話を残らず盗み聞いて、亡父が天皇によって殺されたことを悟り、熟睡中の天皇を刺殺する(眉輪王の変)。その後、坂合黒彦皇子と共に円大臣の宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の兵に攻められ、大臣の助命嘆願も空しく、諸共に焼き殺されたという(ウィキより)

 

真清田神社の三宮明神

真清田神社の三宮明神

 

真清田神社の写真の追加です。せっかくですので載せておきます。

真清田神社の三宮明神さわりです。

 

真澄探當證では、放生会をした時に、鳩が鳥居に止まって、それから「鳥居」というようになったとか・・・本当かどうかは知りませんが。。。鳥居はこの外にあります。

御太鼓橋もあって、昔は亀とか鯉がいるのが見えたのですが、蓋がかぶせられています。

鯉や亀はどうなったのでしょうか?社内の池とつながっているのでしょうか・・

楼門

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前は「水飲み会」だったような気がするのですが、きのせいかしらん???

随分と名前がグレードアップしたような・・・

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どんどん立派になっていきます。

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覗き込んで、顔を写してくださいと書いてありました。一応、うつりました

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拝殿

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服部神社

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服部神社の右手の犬飼社 犬飼社は海神系のようです。住吉三神(中筒男神, 表筒男神, 底筒男神)と犬飼神(おそらくは犬飼明神こと高野明神)、それと手力男とペア?の菊理姫
愛鷹社 愛鷹(あしたか)社 ここに瀬織津姫もいます。

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愛鷹社に同居しているのは「瀬織津姫命,息吹戸主命,速秋津姫命,速佐須良姫命,木花咲屋姫命」です。
ですので、瀬織津姫は三宮明神でも真清田神社の主祭神でもないです。
瀬織津姫も息吹戸主命も丹生都姫のまたの名で、速秋津姫命,速佐須良姫命も祓い戸の神、つまり「戸を開けた」神です。木花咲屋姫命も隼人です。
愛鷹・足高は賀茂大神のことだと思いますので、賀茂大神と祓い戸の神ということでしょうか。

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天神社  そう、金網で囲ってあるんです。鳥よけでしょうか? うまく写真も撮れませんでした。

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鶏網で囲われています。
この右の小山の木陰で烏骨鶏さんや鶏さんたちが涼んでいました。
小山の上には素戔嗚社、愛宕社、秋葉社

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真澄探當證による御裳神社(愛知県一宮市)の由来

真澄探當證による御裳神社(愛知県一宮市)の由来

2015年8月24日 @ 20:36

 

以前、御裳(母)神社 (愛知県一宮市) の写真など紹介いたしました。

「真澄探當證」を読んだらその由来がわかりました。衣とお母さん(地元のおばさん?)に関係してました。

 

御裳神社はお正月でも人はぽつぽつです。

織姫祭りも行われています。織姫さまのパレードが実家の前を通ります。

最近は紫陽花が植えられて紫陽花祭が行われるようになりました。

かなり人間味あふれる由来でした。

ヤマトタケルとも、カグツチとも関係なさそうです。

お母さんと「裳」が神社名に入っているのは・・・

お母さんと着物に由来がありました。

 

むかーしむかし、雄略天皇の暗殺から逃れるため、母宮の兄の尾張一宮の神主を頼って尾張一宮に隠れ住んでいた二皇子の兄皇子  億計(おけ)王が、めでたく皇太子として、倭(やまと)に迎えられることになりました。

その時に地元民はお見送りしようとして、夜、寒い中をずっと待っていました。

すっかり冷えてお腹が痛くなって、転げ回っている地元の「おくら」おばあさんを馬上から見た後の仁賢天皇は気の毒がって、自分の着物とお茶を差し出しました。

暖かい着物とお茶でおくらお婆さんが回復した記念に「痛くら」と名付けました。

痛い「くら婆さん」・・・・

おくらお婆さんと地元民は感激しました。

仁賢天皇の崩御の後に、御裳神社を建立しました。

御裳神社の場所は、むかし起町大字板倉でした。現在は一宮市三条宮西1145です。

あまりロマンチックではないですが、人情あふるる由来です。

真澄探当證の入手方法

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「真清探當證」と薄墨桜  2015/04/03

 

真澄探当證の入手方法

 

身の代と遺す桜は薄住よ 千代に其名を栄盛へ止むる         継体天皇

 

真澄探當證が復刻されました。


「真清探當證 復刻版」 田中豊編

「復刻版 真澄探當證」の入手方法はアマゾンかこちらをご覧ください。

根尾に伝わる謎の写本「真清探當證(ますみたんとうしょう)」を田中豊氏が忠実に復刻し関連の地図や史跡の写真を加えた貴重な資料を16年ぶりに再版!
真清探當證の購入はこちらのネットショップあるいは、人の森事務所でどうぞ。

有限会社人の森様

メール: info@hitonomori.com

 

今まで、古書があまりに高価で、手が出せなかったので、嬉しいです。

他にAmazonで入手出来て内容がわかる古書はこれです。

 

今から1500年ほど前、雄略天皇に父を殺害された億計王(第 24 代仁賢天皇)と弘計王(第  23 代顕宗天皇)の兄弟は真清田神社神主である叔父を 頼って、母の在所である丹波から尾張一宮へと落ち延びました。

二人と一行は農業などをしながら、隠れ住みます。

 

やがて、弘計王と豊媛の間に男大迹(後第 26 代継体天皇)が誕生。
乳母夫妻(後の物部氏の祖)とともに岐阜県の根尾村に隠れ住みました。

後に男大迹王は都へ迎えられて 継体天皇として 即位。根尾村を去るにあたり、真清田神社で献納を受けた桜木をお手植えし御歌を詠まれました。

「身の代と遺す桜は薄住  (うすずみ )よ 千代に其名を栄盛へ止むる」と。

これが、「うすずみ桜」の由来と言わています。

 

根尾の薄墨桜と継体天皇参照
http://ichinomiyadaigaku.com/pdf/15-03-28masumitantosyo2.pdf

こちらから薄墨桜のライブ映像が見えます
http://www.city.motosu.lg.jp/sight/live/

 


 

 

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