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『真澄探当證』は雄略天皇から逃れた億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)の兄弟が真清田神社神主の叔父を頼って尾張一宮へ亡命し、弘計王と豊媛の間に男大迹(継体天皇)が誕生。乳母夫妻(後の物部氏の祖)とともに岐阜県の根尾村に隠れ住み、後に都に迎えられ継体天皇として即位するまでのお話です。 真澄探当證ゆかりの神社や土地などを訪ねたりします

真澄探当證12 市川大臣の御馬皇子への謝罪

 市川大臣の御馬皇子への謝罪

 

このとき御馬皇子に市川大臣は、「全て自分の手落ちです」と詳細を秘密にしたまま、謝罪し、お詫びするのだった。

御馬皇子は市川老人に向かって「そなたが何も言わず、ただお詫びだけでは何もわからないではないか。詳細を語り聞かせよ」と御審問があった。

これはいつも兄弟の仲が良いため、事の大小を問わずいかなる小さなことでもご兄弟で相談して話し合っておられたので、今回もそうでないことはなかったのに、この度は遠路狩りの旅に出たという大事件なのに、知らせが無いため、市川老人の手落ちで、全ての事を市川大臣が纏めて相談までもする役目で、この大切な役目を果たさなかったのは、市川大臣の手落ちであるので、これはいつもと違うという意味の謝罪であった。

であるのに、御馬皇子のお気軽なお尋ねで、市川大臣は恐縮して詳細を物語るのであった。

老人が答えて奏上するには、「実は一昨日、倭、山代、伊勢の国境に連らなる峰に猪、鹿、雉、山鳥など鳥獣がたくさん生息することを知らせてきた者がいました。元来、狩猟好きな我が君さまは、直ちに狩りに行かれました。しかるに、かの連峰までは相当な距離があるため、種々ご出立の準備に忙殺され、ご報告するべきところをせず、ご報告漏れはこれひとえにこの老人の手落ち」とお詫び申し上げた。

「なお、相手方の都合により、今朝未明に、目的場所で落ち合う約束のため、日中は暑さ激しきために耐え難いと思い、昨日、申の刻に宮様は御出立なさいました」と。

この時、御馬皇子は重ねてお問いになった。「相手の猟友は誰ですか?」とお聞きになった。

市川大臣の老人が答えて奏上するには「相手方はご心配には及びません、ご親戚筋の大泊瀬幼武命 (雄略天皇) がご同伴の方ですので」と申し上げるのも終わらないうちに、御馬皇子はたちまち顔色が変わり、

「今朝、こちらの宮邸に伺ったのはひとえにこの話(安康天皇暗殺)の噂があるために、兄宮に内密でご相談をするための用向きで伺ったのだ。今、兄宮の同伴者が大泊瀬幼武命と聞き、このような大事を公表もせず、秘密にし、今兄宮と今上天皇が殺害されなさったのに、狩猟などの遊びとは合点がいかない。」

と、なお続けてお問いになって、
「同伴者の大泊瀬幼武尊より一昨日、ご親書をこちらに寄越されて回答を待ち受けて持ち帰ったのですが、その際にこの老人は不在で、宮が回答なさった内容は存じませんでした。それで臣下のこの身をもち、諫言同様に、思うところを様々に申し上げれば、
市辺押磐皇子は『今回だけはこの老人の言うことはきかない』とおっしゃるため、やむなくご下命どおりに、昨日、申の刻までに諸準備整えて御出立あそばされました。何分にも、急な仰せのために、従者など諸準備に忙殺され、ついに貴宮までご報告漏れとなってしまいましたこと、重ね重ねこの老人が愚かであるためです」となお一層お詫び申し上げ、お許しを乞う旨申し上げ、真心籠めて物語るのでした。

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