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『真澄探当證』は雄略天皇から逃れた億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)の兄弟が真清田神社神主の叔父を頼って尾張一宮へ亡命し、弘計王と豊媛の間に男大迹(継体天皇)が誕生。乳母夫妻(後の物部氏の祖)とともに岐阜県の根尾村に隠れ住み、後に都に迎えられ継体天皇として即位するまでのお話です。 真澄探当證ゆかりの神社や土地などを訪ねたりします

真澄探当證4. 市辺押磐皇子主従、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)により殲滅

真澄探当證4. 市辺押磐皇子主従、大泊瀬幼武尊(雄略天皇)により殲滅

 

A.D.444年 甲申(きのえさる)八月七日、午後三時ごろ、

市辺押磐皇子は弓箭、箙まで全て替えのものを含めて身に着け、

宮さまには頭に長烏帽子冠に、狩衣装束を召され、ごく軽装のいでたちで、

従者の総取締に佐伯部売輪(さえきべのうるわ)を主として、

舎人の内でも屈強のもの数十人を選抜して、御出発なさって、

今日の夜の九時ごろまでに予定地の四キロほど手前まで到着した。

 

 

しかし、明日の明け方に会う約束であったので、四キロほど手前で露営することにした。

 

この時近隣の田舎の人が誰が言うでもなく、宮さまが狩りのお越しなさったと騒いでいるうちに、

多くの氏族の人達が遠路はるばるお越しのお見舞いかたがた集まってきた。

 

でも何か献上する物はと色々考えても、何分にも突然のおなりなので、

どうしようもなくて、暑気払いとして、各所に貯蔵してある籾を取り出して、湯が沸騰している中に投入して、

甘酒を作って、市辺押磐皇子主従に奉ったので、

主従みなの喜びは一方ならぬもので、それを飲んで満腹になったのであった。

 

蚊帳野の由来

この時、もう夜も更けてきたので、蚊の群れが襲って来て、追い払うのが大変であった。

それでやむを得ず農家に依頼して、蚊帳を借りて集めてもらい、

この野原に柱の代わりに支柱代わりの竹をたてて、ここに蚊帳をつり、

明け方の四時ごろまで露営宿泊することにして、市辺押磐皇子主従は床に就いた。

 

この時、野原に蚊帳を吊ったので、後世、この地を蚊帳野と呼ぶことがあった。

 

的野(まとの),待居村,松尾村の由来

同日、泊瀬幼武尊主従は、市辺押磐皇子主従の動向を探り、謀略で奇襲するために、

二キロ隔てたところに陣を構え、露営して待っていた。

 

この時蚊野に宿泊の市辺押磐皇子を目的に待っていたので、後世、的野(まとの)という。

また、一名、この地に大泊瀬幼武尊一族が待っていたので、待居村と名をつけた。

後に松尾村と改称した。

 

 

A.D.444年 甲申(きのえさる)八月八日の夜明けの四時ごろに、

市辺押磐皇子主従は付近の田舎の農民に対して、いたく昨夜お世話になったことのお礼を言って、出発した。

市辺押磐皇子は、第十七代履中天皇の第一皇子である。

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