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『真澄探当證』は雄略天皇から逃れた億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)の兄弟が真清田神社神主の叔父を頼って尾張一宮へ亡命し、弘計王と豊媛の間に男大迹(継体天皇)が誕生。乳母夫妻(後の物部氏の祖)とともに岐阜県の根尾村に隠れ住み、後に都に迎えられ継体天皇として即位するまでのお話です。 真澄探当證ゆかりの神社や土地などを訪ねたりします

真澄探當證による御裳神社(愛知県一宮市)の由来

真澄探當證による御裳神社(愛知県一宮市)の由来

2015年8月24日 @ 20:36

 

以前、御裳(母)神社 (愛知県一宮市) の写真など紹介いたしました。

「真澄探當證」を読んだらその由来がわかりました。衣とお母さん(地元のおばさん?)に関係してました。

 

御裳神社はお正月でも人はぽつぽつです。

織姫祭りも行われています。織姫さまのパレードが実家の前を通ります。

最近は紫陽花が植えられて紫陽花祭が行われるようになりました。

かなり人間味あふれる由来でした。

ヤマトタケルとも、カグツチとも関係なさそうです。

お母さんと「裳」が神社名に入っているのは・・・

お母さんと着物に由来がありました。

 

むかーしむかし、雄略天皇の暗殺から逃れるため、母宮の兄の尾張一宮の神主を頼って尾張一宮に隠れ住んでいた二皇子の兄皇子  億計(おけ)王が、めでたく皇太子として、倭(やまと)に迎えられることになりました。

その時に地元民はお見送りしようとして、夜、寒い中をずっと待っていました。

すっかり冷えてお腹が痛くなって、転げ回っている地元の「おくら」おばあさんを馬上から見た後の仁賢天皇は気の毒がって、自分の着物とお茶を差し出しました。

暖かい着物とお茶でおくらお婆さんが回復した記念に「痛くら」と名付けました。

痛い「くら婆さん」・・・・

おくらお婆さんと地元民は感激しました。

仁賢天皇の崩御の後に、御裳神社を建立しました。

御裳神社の場所は、むかし起町大字板倉でした。現在は一宮市三条宮西1145です。

あまりロマンチックではないですが、人情あふるる由来です。

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