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『真澄探当證』は雄略天皇から逃れた億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)の兄弟が真清田神社神主の叔父を頼って尾張一宮へ亡命し、弘計王と豊媛の間に男大迹(継体天皇)が誕生。乳母夫妻(後の物部氏の祖)とともに岐阜県の根尾村に隠れ住み、後に都に迎えられ継体天皇として即位するまでのお話です。 真澄探当證ゆかりの神社や土地などを訪ねたりします

『真澄探當證』の現代語訳は著作権侵害ではない

先日(六年くらい前のことです)、私の旧サイト『真澄探當證を読む』http://masumi.kodaisi.net/(以前は違うサブドメイン)
が入っているサーバー会社に、『真澄探當證』の著作権を侵害していると主張される方から、

発信者たる私の情報開示を求められました。

(注)この記事もサイトも古くなってますので、六年くらい前のことです

 

開示請求の理由が

「 発信者に対する削除要求のために必要であるため
謝罪要請のために必要であるため
加害者の対応によっては損害賠償請求権行使のために必要であるため」

とありました。

 

弁護士と著作権情報センターからは、以下の理由で、著作権侵害には当たらないと

言われてますとサーバー会社に説明しました。

それで、


著作権侵害ではないので、私は加害者ではありませんでしたし、

謝罪の必要も無く

私の個人情報を請求者に開示する必要はないとのことで、

サーバー会社の弁護士が請求を却下しました。

 

 

著作権情報センターも真澄探当證の現代語訳は著作権侵害にはあたらない

 

私は何年か前に、『真澄探當證』(ますみたんとうしょう)の現代語訳を載せるにあたって、著作権情報センターに相談し著作権侵害にはあたらないということを確認しました。

サイト冒頭部分にも以下のように掲載しております。

 

「このブログの内容、特に現代語訳することについて、公益社団法人著作権情報センターに相談したところ

・著作権は古墳時代なのでもう切れているので問題なし
・再出版された翻訳をそのままコピーして使用するのでなければ全く問題ない
(再販されたものは翻訳ではないのでコピーしようがないですが・・・)
・二次著作物についても、『真澄探當証』を活字にされた田中さまが翻訳されたものを使用するのでなければ問題ない
(再版された『真澄探當証』には翻訳は掲載されてないです。)

等々、公益社団法人著作権情報センターに確認したところ、現代語訳しても著作権については全く問題ないというお話でした。
現代語訳出来ないならば、学問研究に支障をきたすので、そんなばかなことはないということでした。」

 

真澄探當證は古墳時代の著作であり、原本はもうとうに著作権は切れていると著作権情報センターに確認した上で現代語訳を少しずつ自分のサイトに載せておりました。

私も真清田神社のある愛知県一宮市出身ですので、地元に帰った時は関係のある神社などを取材しておりました。

 

 

古典の現代語訳が著作権侵害なら『源氏物語』などの現代語訳も著作権侵害にあたるはず

著作権情報センターは古墳時代の著作を現代語訳することが著作権侵害なら学問研究に支障をきたすし、現代語訳しても全く問題がないと言っておられます。

以前、著作権情報センターからは『源氏物語』や『枕草子』なども現代語訳されており、それらの現代語訳は著作権侵害にはあたらないと言われてます。

 

今回、念のため再度、著作権情報センターに問い合わせ致しました。

 

公益社団法人著作権情報センター【著作権相談専用】 03-5333-0393

また著作権侵害だと言われたら再度、公益社団法人著作権情報センターに相談してくださいと言われました。

公益社団法人著作権情報センターに2017年10月13日の10:40くらいに「いぬい」さまという方が応対してくださったので、もし問い合わせることがありましたら、『2017年10月13日の10:40くらいに「いぬい」さまに真澄探當證のことで相談した』とそのようにお伝えいただければわかるそうです。

 

弁護士も『真澄探當證』の現代語訳は著作権侵害ではないとのこと

 

また、弁護士にも現物を持参してお見せして確認しました。

 

先ず、私の現代語訳は著作権侵害ではないので、私の個人情報の開示請求に応じる必要はないと言われました。

応対してくださった弁護士が、自分は名乗りもしないで、私の個人情報の開示だけを求めるのはおかしいとおっしゃいました。

私のサイト『真澄探當證を読む』はずっと公開しています。(何かあると怖いこととサーバー移転のために、サイトを閉じてました)

サイトにはコメント欄があるのに、いきなり個人情報の開示を求められるのは変だと思いましたが、最近はアーカイブが趣味の方が多いので、アクセス制限に引っかかったのかもしれません。

復刻版の『真澄探當證』は田中豊

『編』 

となっていて、編者は田中豊さまになっているけど、

「著」とはなっておりません

 

田中豊さまが、古墳時代の著作の著者だとは言えないそうです。

 

それに田中豊さまがお調べになられた巻末の資料部分は私は参考にしておりません。

私も一宮市出身ですので、真清田神社周辺のことは知っているからです。

それに一宮周辺以外のことも自分で調べたいからです。

 

例えば、古典の本を例にとってみますと
長く宮中の書庫に眠っていて近代になって発見され、

活字化され現代語訳が出された『とはずがたり』という書を例にしてみます。

 

とはずがたりの著者が後深草院二条だと古典の研究者ならだれもが知っています。

下に例を挙げました研究者は、校注、全訳注、訳、訳注とかかれていますが、

古典を活字化してその古典の著者だと主張される方はいません。

 

<校注や訳注 の表記の参考資料>


新潮日本古典集成〈新装版〉 とはずがたり (新潮日本古典集成) [ 福田 秀一 ]

福田秀一 校注 となっています。

 


【中古】 とはずがたり(下) 講談社学術文庫/次田香澄【訳注】 【中古】afb

他にも

『とはずがたり』 冨倉徳次郎 訳 (筑摩叢書) など

 

校注・訳・訳注とは書いてありますが、

もちろんどの研究者の方も校注・訳・訳注をされたからと『とはずがたり』の著者だと主張されるかたはおられません。

 

仮名文字を活字化した方が、著作者だと主張するのは私は見たことがありません。

 

活字化された方が、著作権を主張されるのなら、研究者の方も戸惑われることですし、研究に支障をきたす

ことでしょう。

「請求者が創作した著作物「真清探當證」」だと「創作」を主張しておられましたが、

活字化された方は、「田中豊」と書いておられるように編者であって、『真澄探當證』の著者ではありません

 

弁護士さんも二次著作物とは言えないとの見解

 

念のため弁護士さんに

上記の現物の本

をお見せして相談しました。

結論は、「請求者が創作した著作物「真清探當證」」とは言えないと思うとのことでした。

 

二次著作物とは言えないので、現代語訳しても、やはり著作権侵害にはあたらないと思う、と言われました。

理由は

1.手書き文字を活字化しただけでは二次著作物とは言えない

2.漢字に読み仮名が振ってあってもその人でなければふれないというものでもない

3.章立ても参考にしてなければ問題がない

4.巻末の資料などは参考にしていなければ問題なし

 

なので、著作権侵害とは言えないと思うとのことでした。

 

私は『真澄探當證』の地元民(元一宮市民)ですので、そこの地域のことはもちろん知ってますので、神社名や地名などを聞けばわかります。

なので、付属の参考資料は見ていません。

 

もし裁判となっても、おそらくは著作権侵害にはあたらないとされると思うとのことでした。

 

源氏物語に注釈を入れた、活字化したから自分が源氏物語の著者だと主張される方はいらっしゃいまん。

弁護士さんは、裁判になったら多分勝つでしょうと言われます。

 

著作権情報センターからは私が現代語訳したものは私に著作権があると教えてもらえた

反対に今回のことで、著作権情報センターの方に、私が現代語訳したものは私に著作権があるんだから、大丈夫だと教えていただきました。

活字化した本の売れ行きが悪いのは困るという出版社の都合があるから、著作権どうのとおっしゃってるのじゃないかとおっしゃってました。

東京の別の出版社の方にも伺ってみましたが、やはり同じ事をおっしゃってました。

 

今回、再度、著作権情報センターに問い合わせる前に

揖斐町教育委員会に問い合わせをしました。

真澄探當證は「請求者が創作した著作物」であるのか揖斐町教育委員会の見解をお伺いしたく
、揖斐町のホームページの問い合わせから問い合わせをしました。

まだご連絡いただいてませんので、ご返答があり次第掲載します。

<追記>

あれから六年以上お待ちしておりますが、揖斐町教育委員会からは何のお返事もいただいておりません。

 

真清田神社の三宮明神は熱田神、大己貴命の荒魂、大物主神

 

こんな記述を見つけました
「総社明神は尾張の国中嶋郡真清田社祭神大巳貴命にて、当国の一の宮なり。」 「和歌山市直川(のうがわ)にある丹生神社(にうじんじゃ)は 1192(建久3)年  紀朝臣實俊が尾張国熱田神を勧請し直川郷の総社とします。」 丹生社、総社の両神社は村中に在り一村の産神なり。 社傳に丹生明神は丹生津姫神なり。総社は尾張国熱田の神とある。 丹生神 は本国神名帳に正一位直姫神とある。 当丹生神社は高野の丹生大明神を里上山に勧請して祀りしを、天正年間に今の 地に移し祀る。里上山に丹生の段と云う舊跡がある。 総社明神は尾張の国中嶋郡真清田社祭神大巳貴命にて、当国の一の宮なり。 同神を建久二年に直川郷・紀朝臣實俊当所の領主となりたる時、勧請して直 川郷の総社とす。 古くは当社の前、東西に馬場あり、その東を的場といい、神事に走馬ありし跡 なり。 その祭禮に桃弓棘矢にて武者試馬流鏑馬に悪気を射し所、後世的場と云う字遺 称あり。 旧直川は東西両村に別れ、丹生社は東に祭る神なり。天正年間に総社境内に移 し、それより両社を同所に祀る。一村の産神と祭祀する。」丹生神社(にう)http://kamnavi.jp/ny/musonew.htmより
この神社があるのが、名草郡です 総社明神が鎌倉時代初期には大巳貴命を祀る真清田社とされていた しかも、「当国の一の宮なり」とまで書いています。
「基本的には、尾張や摂津、武蔵などの各国の国霊(大地の守護神)だが、 単に大国魂神・大国御魂神という場合は、日本(大和)の守護神を意味する。 『日本書紀』に大己貴命の別名として大国玉神とあり、 大和大国魂神は、一般的には大己貴命の荒魂、大物主神と同神と考えられている。(玄松子さんのサイトより)」   大和神社(おおやまと)のサイトより 日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第十代崇神天皇六年に天皇が神威をおそれ、天照大神を皇女豊鋤入姫命をして倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが当神社の創建であると伝えられている。(2000余年前)大和神社のサイトより
  天理市新泉町星山  祭神 中殿 日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ(大地主大神 左殿 八千矛神 右殿 御歳神 神紋 橘 5摂社 増御子神社「猿田彦命、天鈿女命」 摂社 朝日神社「朝日豊明姫」 摂社 タカオカミ神社「雨師明神」、延喜式では丹生川上神社の元宮とする。 摂社 渟名城入姫神社「渟名城入姫神社」 摂社 雅宮神社(まさみや)「天押雲根神」   その大己貴命(別名大国魂大神・大己貴命の荒魂・大物主神)を祀っていたのが尾張一宮大神神社です。 下記の「大神神社由緒略記」では 「大神神社」と「真清田神社」をまとめての「相殿・対の宮」と言うことで「尾張一の宮」とし、 大神神社のあるあたりは、「三輪郡・大神郷・熱田の庄蓮池と言われ」ていました゚ ゜゚゚☆゚ ゜゚゚☆゚ ゜゚゚☆*゚ 【尾張国一の宮 式内 「大神神社由緒略記」より抜粋転載】 (大字と赤字は筆者) 尾張一宮大神神社(愛知県一宮市)
【由緒】 「 ここ尾張地方は、木曽三川の河口部に開けた、広大な沖積平野。 川が入り乱れて、網の目のような低湿地。葦の生え茂った、大きな梁から転じて大梁・尾治・尾張となったとも言われている。人が住み着き集落ができて、弥生時代から古墳時代にかけて、邪馬台国から大和の国の頃、次第に東に「開拓」が進み、ここ「花池」にも大和系(三輪族)の人々が大物主神を祀る「大神神社」を建て、祖先を祀り日々の安泰を祈り、団結のシンボルとして神社を中心にして部族を発展させた。 一方、神武系の人々は、真墨田神社(後の真清田神社)を相殿という形で建てて「天火明命」を祀った。 また、奈良時代に国司が赴任してきて、国中の神社を代表として国府宮の「尾張大国霊神社」を尾張の「総社」に指定、次いで花池の「大神神社」と「真清田神社」をまとめての「相殿・対の宮」と言うことで「尾張一の宮」に指定した。嘉祥三年(八五〇)「文徳実録」「尾張国帳」には、従一位大名神とあり、三宮明神・三明神(神宝として珠・鏡・矢三種の御証印があった)と称せられ、延長五年(九二七)延喜式神名帳には式内社とあり、勅祭神社であったことが判る。 尾張の国中には、大名神八座・小一一三座あって、当時の大名神八座の中の一座である。昔の花池村は「三輪氏」一族の地方だった故か?・三輪郡・大神郷・熱田の庄蓮池と言われ、各所に白蓮が咲いていたとかで「蓮池」そして「華池」「花池」となり今日に及ぶと、伝えられている。」 【尾張国一の宮 式内 「大神神社由緒略記」より抜粋転載】
  大神神社は大物主を祀っており、氏子の地元の大和町の人達は、真清田神社を神武側だとおっしゃってます 出雲族は元々いた大和から移動してきて大和と地名を付け、大神神社を祀り、 その後に神武側の尾張氏が入ってきて、真清田神社を建てたようです
【尾張国一の宮 式内 大神神社由緒略記より抜粋転載】 尾張一宮大神神社(愛知県一宮市) 神社名:大神神社 鎮座地:愛知県一宮市花池2丁目15番28号 旧鎮座地:愛知県一宮市大和町宮地花池字西屋敷 御祭神:大物主神 社格:式内社名神大、旧郷社 例祭:10月10日 月次祭:毎月2日 宮司:大神社宮司兼務 【境内神社】 六所社:豊受皇大神、応神天皇、天児屋根神、倉稲魂神、式甕槌神、底筒男神 三島社:大山祇神 白山社:伊弉冊神 神明社:天照皇大神 招魂社:日露戦争以降の英霊 【境外神社】 素盞嗚社:素盞嗚命 以上、【尾張国一の宮 式内 大神神社由緒略記より抜粋転載】
大神神社の境内の楠f3a5dcb7.jpg 楠の木は海人族の神社に多い 船を造る材料だったからだ ゚ ゜゚゚☆゚ ゜゚゚☆゚ ゜゚゚☆゚ ゜゚゚☆*゚ 大巳貴命を祀る大神神社の奥の院が大縣神社と言われています 今まで、調べてきたことからも、大縣神社は丹生都姫( 罔象女神・アラハバキ)を祀っています。 輝く朝日の丹生都姫は天の御蔭命★三角縁神獣鏡はストーンサークルでアラハバキ?★天津甕星7 尾張は扶桑国?三角縁神獣鏡は須弥山?★天津甕星6 を参照してください。 時代が降るにつれ、鉱物資源も輸入され、吉野などでは水銀採取も廃れていき、丹生都比売大神の代わりに穀物生産のための、おかみや水分信仰が盛んになりました。そのため、祭神が丹生都比売大神であったのが、ミズハノメのような水神信仰になっていきます。 大縣神社でもアラハバキ・丹生都姫を祀っていたのが、武器なども銅から鉄製になり、銅の採掘も下火になるにつれ、水の女神の罔象女神に変わっていったのでしょう。 
丹生川上神社も同様に丹生都姫から神へと変わっていきました。 「上記の事は古来から高神が祀られていたと主張するものではない。祭祀跡に同神が勧請されたのであろう。 一説には高麗神であったとも言う。それが高神に変わる。高麗神も素盞嗚尊の子孫と言えなくはない。(神奈備さんの丹生川上神社上社の記事より)
丹生川上神社 奈良県吉野郡東吉野村小968雨師の明神、水神宗社 丹生川上神社(上社:奈良県吉野郡川上村、中社:東吉野村、下社:下市町)の祭神が、上社が高淤加美(たかおかみのかみ)、中社が罔象女神(みずはめのかみ)、下社が闇淤加美(くらおかみのかみ)です 水銀採集の氏族に半島攻略の功があったため、神宮皇后が天照大御神の妹として神領安堵しましたが 時代が下るのつれ、水銀採掘が廃れ、農業用水としての水の重要度が高まったために、祭神が丹生都姫から水の女神へと変わっていきます。 後に丹生都比売大神は弁財天女と姿を変えて信仰されます。 丹生川上神社は神武天皇が長随彦と戦うに当り、高倉山にて夢訓を得て、椎根津彦等に命じて天香山の土を取ってこらし、丹生川上に於て神祇を敬祭せらしめた場所です(丹生川上神社サイト参照)」 神武がここで呪術を行った理由は、丹生川上社の元宮が大和神社(旧称は朝和之宮(あさわのみや)で、大国御魂神を祀った社だったからです 神武が天香山の土を取ってこさせたことからもわかりますが、この時の丹生都姫達の本拠地は大和だったようです 四国にも同じ名前の天香山があるのは、四国・大和も海神族が移動して開拓したからではないでしょうか? ○●○●○●○●○○● ○●○●○●○○●○●○●○●○ 真清田神社の三明神 火災のため、一時期尾張一宮の大神神社のご祭神が真清田神社に引っ越ししていたことがありました それが戻ってきて、今ある場所に少し移動しましたけど、かなり社殿等も縮小されてしまいました それは地元民なら知っています。
「戦国時代の浅井田宮丸の乱で社殿を焼失して以降荒廃し、神宮寺である薬師寺の境内に遷座した。明治3年、薬師寺に隣接する現在地に再建された。」ハッシー27さんのブログより
真清田神社の祭神は火明命と言われています では祭神が大巳貴命とされていたのはなぜでしょうか その理由は「水石の美を求めて」さんが詳しく追求されていますので、どうぞ(写真もお借りしました) <追記> このお写真の絵は一宮市博物館にありました。ジオラマ模型もありましたので、別記事に掲載します。 真清田神社の三つ鳥居 三宮明神
水石の美を求めて」さんの新春の真清田神社 その4より図もお借りしました 「真清田神社古絵図の画像は極めて不鮮明なので、かなり加工した上で三輪鳥居の部分をアップします。」003_convert_20140116092250.jpg
真清田神社本殿背後の三輪鳥居。上端のほぼ真ん中に見えています。三輪鳥居の先に三宮明神が祀られてました。現在は三輪鳥居はありません。 現在は祭神は「火明命」ですが、実は真清田神社の桃花祭では、 祭の神輿の順番は本殿の後ろに祀られている「三明神」が先頭で、「火明命」よりも上位の神ということになります その、三明神というは三輪鳥居が建てられていたことからも、大巳貴命のようなのです 三輪鳥居(みわとりい・ウィキより) 画像 
真清田神社「三明神」 本殿の後ろがちょっと高くなっており、平成になって再び三宮明神つまり、大己貴命の荒魂、大物主神が祀られました 阿多隼人は吉野にも進出していました。阿多=熱田でしょう 鉱物の民、海人族繋がりです 熱田の庄の熱田とは熱田神宮で、阿多隼人とも関係が深いです。 約1300年前の尾張地方(猿投神社の古地図) jpg1300前の猿投神社古地図zu_n 当時は大神神社も真清田神社も島のようなところになってました 尾張中島とか、地名に残ってます 犬山出土の銅鏡に表わされた海に囲まれた島にある須弥山とも似ています 中洲といえば、弁財天を連想します 宗像大社も天河弁財天も中州にあります 熊野本宮大社の大斎原も河の中洲にあります
海人族が船で乗り付け、犬山などで銅などの鉱物を採取できそうです この他にも尾張国古絵図があります
ハッシー27様のブログより 「 熱田神宮の境内は古くから雲見山・蓬莱島の名で知られる。これは往古では熱田の地は海に突き出した岬のようになっていたためである。熱田の宮は海を正面にして造られていた。 画像 熱田神宮古図には神社の前に海らしきものが描かれ舟が浮かんでいる。 熱田の宮は蓬莱山の伝説があり、かつては「蓬莱宮」とも呼ばれていた。この熱田の宮を海から見て左、そこに名古屋城とその城下町が位置していたことから、名古屋及び名古屋城は別名・蓬左と言われた。名古屋城が名古屋のシンボルになる前は、間違いなく熱田の宮が名古屋(尾張)の象徴だった。今では「蓬莱」の名は名古屋市内の店の名に僅かに残るだけになったという。」以上、ハッシー27様のブログより
犬山市の東之宮古墳出土の三角縁神獣鏡-4 大縣神社のある犬山の古墳から出土した三角縁神獣鏡には、海に囲まれた島か陸にある須弥山(Sumeru)のような世界観が表現されていました 須弥山に対して、熱田神宮は蓬莱山と呼ばれていたのでしょうか 表現は違っても、同様のことを表してるのでしょうか 大縣神社のある犬山ですが、以前、丹生都姫の息子とされる高野明神も白黒の犬を連れており、犬飼星の三連星と同じで、鉱物の民と犬や犬飼という地名はセットのようです
途中ですけど、続きはまた あ、真清田神社の三宮明神は瀬織津姫ではないですよ。 瀬織津姫は摂社に祀ってあります。
証拠写真は真清田神社の三宮明神 にあります。
2014年8月12日 11:07

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