About this blog

『真澄探当證』は雄略天皇から逃れた億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)の兄弟が真清田神社神主の叔父を頼って尾張一宮へ亡命し、弘計王と豊媛の間に男大迹(継体天皇)が誕生。乳母夫妻(後の物部氏の祖)とともに岐阜県の根尾村に隠れ住み、後に都に迎えられ継体天皇として即位するまでのお話です。 真澄探当證ゆかりの神社や土地などを訪ねたりします

真澄探当證14 御馬皇子、大泊瀬幼武命に生け捕られる

 御馬皇子、大泊瀬幼武命に生け捕られる

 

この農夫からの報告を得て、御馬皇子の怒り顔は夜叉のごとくになり、猛獣か荒ぶる猪を再び駆けさせるがごとくに御乗馬なさった。

この時、大泊瀬幼武尊は市辺宮主従を目的通りに殲滅し、全滅したのを確認して、場所をかえてここに凱旋して、勝利の旗を立てて翻していた。

この様子をご覧になった御馬皇子は、怒り顔がなお一層増し、翻していた旗をすぐさま切り落とし、怒りを少しはお晴らしになった。故にこの地を後世、切幡と名付けた。現在の切幡村(奈良県都祁村)がこれである。

なお続けて馬をとばし、兄宮押磐宮の敵を討とうと、兎に角ずんずんと進んで、もし、多勢に無勢で、敵対できないときは、馬の蹄で蹴り散らしても、倒さずにはおかないという勢いで進まれた。

しかしながら、この御馬皇子は、他の宮たちに優れて、最も英傑の聞こえが高く、もっとも馬術も堪能で、一騎当千の勇敢無比の宮で、故に他には目もくれず、一目散に敵陣めがけて突進した。

大泊瀬幼武尊方は御馬皇子が勇敢で武勇に優れているのを聞き知っていたので、本当に戦ったなら不利であるのを予測し、屈強の家臣を選び、途中で伏兵を命じて、その他全ての者たちは凱旋気分に酔いしれていると装って、陣幕の内側でわいわいと騒いでいた。

これを見た、御馬皇子は、途中に伏兵を潜ませてあるとはしらず、一目散にに馬を駆けさせている最中に、道の傍らの藪の中から突然躍り出て、乗馬の前足を殴打したものだから、前足を殴打された馬は、前足の膝を折り、即座に斃れた。この拍子に前に転倒し、御馬皇子は敵めがけて進んでいる最中に突然馬が斃れた拍子に落馬した。これを見た数十名の潜伏兵一同に皇子は襲い掛かられて、起き上がろうとしたところを組伏せられ、終にからめとられて、生け捕りの憂き目に遭った。

この時、御馬皇子は、闇討ちに遭遇して、素晴らしい英雄豪傑も無抵抗のまま、瞬時のうちに敵の手によって、激しく縛り上げられて、からめとりにあったことは、皇子はずっと残念だ、残念だとのみ叫んでいた。

大泊瀬幼武尊は喜んで、目的通りに我が術中に陥るとは天からのプレゼントだと歓喜した。

故にこの地は後世になって、大泊瀬幼武尊の凱旋地であるので、勝原・かつはら(奈良県山添村)と名付けた。

この隣村の御馬皇子が闇討ちにあった結果、無抵抗で捕まり、この絡めた者どもが激しく縛り上げたのが、御馬皇子であったため、後世この地を結馬村・けちば村(名張市)と名付けた。

先に市辺押磐皇子が、予定地に来たのをもって、この狩猟場を来野と名付け、のにちまた来野を北野に直した。現在の大和山辺村北野村(奈良県山添村)がこれである。

真澄探当證13 御馬皇子、市辺押磐尊救助のため後を追う

 御馬皇子、市辺押磐尊救助のため後を追う

 

市川老人より事情聴取した御馬皇子は、なお一層合点が出来ず、

たとえ親戚筋であっても不審な点が多く、もしや大泊瀬幼武命に反逆の意図があり謀略があると、脳裏に浮かんだため、俄かに顔色が変わって、合点がいき、声を荒げて「馬を引け」とご下命があり、

老人が問うたのは「何事が起こったのですか」ということで、

皇子は「これは容易ならざる重大事で、このままだと兄宮が危険だ」と宮宅の人にも断りなく、なげしにかけてあった槍と弓箭、箙(注)を身に付けて、そのまま馬にまたがって、馬の横腹を蹴り、出発なさった。

 

この時市川大臣を初めとして、臣下一同お供いたしたいと宮に申し上げた。

御馬皇子がおっしゃるには、

「お前たちを従者として伴ったら、遠路で遅れる恐れがあり、危機に瀕しなさっている兄宮が敵兵にかかり斃れなさったなら、詮なきことだ」

と市辺押磐宮の臣下一同が諌めるのも聞き入れなさらずに、槍を小脇に抱えて駆け出しなさった。

 

この時、御馬皇子が急に単身で御出立なさったのは、同伴者が大泊瀬幼武命だと聞いたからで、今上天皇は殺害されなさって変死された。

噂になっているのにこれを秘密にして隠匿して、あまつさえわが兄宮を狩猟に事寄せ、油断させて誘拐し、暗殺を企てる意図があるのは間違いなし。

次の天皇は、わが兄より他に天皇の御位を継ぐ道はないので、一人御馬皇子は早朝に従者もなく、単独でご訪問され、

ことに御馬皇子と市辺押磐尊はご兄弟の仲睦まじく、ただ兄宮さま、兄宮さまとお慕いして、また市辺押磐尊は何事も弟宮の御馬皇子にご相談なさる間柄で、相談しなかったことは一度もなかったのに、

今回初めて御馬皇子にご報告もなく、無断で御出立なさったので、弟宮として、親戚筋の大泊瀬幼武命に謀られて、みな亡くなってしまったかと、思った御馬皇子は少しの余裕もなく(ご出立なさったのは)至極当然のことである

 

この時、御馬皇子は御乗馬に跨り、一鞭あてて、狩場目指して進んでおられた。

この時、御馬皇子が単身ご出立なさったのは、相手方の同伴者が大泊瀬幼武命だと聞いたからで、昨日、今上天皇が変死なさったという報を聞いて、次の天皇は兄宮だと信じて、故に弔いの公布が遅いので不審に思い、

このため兄宮と協議して、弔問のお見舞いの相談に先触れもなく訪れたのに、今の兄の猟友が大泊瀬幼武命と聞いて驚いた。

 

これは実の兄である天皇の暗殺にあったというのに、その弟宮の大泊瀬幼武命が狩猟とは合点がいかない。

何か腹に一物の隠し事をしていると察して、さては天皇位を奪い継承する目的のため、兄宮を誘拐して暗殺する計画を企てたと感じ取った。

 

疾風や速き矢のごとく、瞬時に乗馬で飛ぶように駆けてきた道に二股に分かれる場所があった。

ここで一人の農夫に遭って、お問いになった。「市辺押磐尊が狩りに行かれたのはどちらか」と。

農夫は答えて

「お尋ねの市辺押磐宮主従は、昨晩ここをお通りになり、今朝未明に大泊瀬幼武命と合戦が狩場であって、市辺押磐宮主従は襲撃に遭遇されて、一族は惨殺され全滅して、このことは噂でここら一帯では、これは騙し討ちにあったと専らの大騒ぎになってます。」

つぎに農夫が重ねて言うには、

もう今頃は狩場より東南におよそ一里(約4km)ほど距離がある場所に軍勢も引き揚げ、目下凱旋の準備をしているという噂で、西の辺りで聞いたことを物語った。

 

この時、御馬皇子は農夫に一部始終の噂を聞き、推察していたとおりに、謀略にあって殲滅したかと凄まじい怒りの色を表して、道を転じて右折して進んでいかれた。故にこの土地を後に、馬場(奈良県都祁村)と名付けた。

 

 

(注)箙 えびら、弓を背負う道具、矢筒 (図はウィキペディアより拝借)

真澄探当證12 市川大臣の御馬皇子への謝罪

 市川大臣の御馬皇子への謝罪

 

このとき御馬皇子に市川大臣は、「全て自分の手落ちです」と詳細を秘密にしたまま、謝罪し、お詫びするのだった。

御馬皇子は市川老人に向かって「そなたが何も言わず、ただお詫びだけでは何もわからないではないか。詳細を語り聞かせよ」と御審問があった。

これはいつも兄弟の仲が良いため、事の大小を問わずいかなる小さなことでもご兄弟で相談して話し合っておられたので、今回もそうでないことはなかったのに、この度は遠路狩りの旅に出たという大事件なのに、知らせが無いため、市川老人の手落ちで、全ての事を市川大臣が纏めて相談までもする役目で、この大切な役目を果たさなかったのは、市川大臣の手落ちであるので、これはいつもと違うという意味の謝罪であった。

であるのに、御馬皇子のお気軽なお尋ねで、市川大臣は恐縮して詳細を物語るのであった。

老人が答えて奏上するには、「実は一昨日、倭、山代、伊勢の国境に連らなる峰に猪、鹿、雉、山鳥など鳥獣がたくさん生息することを知らせてきた者がいました。元来、狩猟好きな我が君さまは、直ちに狩りに行かれました。しかるに、かの連峰までは相当な距離があるため、種々ご出立の準備に忙殺され、ご報告するべきところをせず、ご報告漏れはこれひとえにこの老人の手落ち」とお詫び申し上げた。

「なお、相手方の都合により、今朝未明に、目的場所で落ち合う約束のため、日中は暑さ激しきために耐え難いと思い、昨日、申の刻に宮様は御出立なさいました」と。

この時、御馬皇子は重ねてお問いになった。「相手の猟友は誰ですか?」とお聞きになった。

市川大臣の老人が答えて奏上するには「相手方はご心配には及びません、ご親戚筋の大泊瀬幼武命 (雄略天皇) がご同伴の方ですので」と申し上げるのも終わらないうちに、御馬皇子はたちまち顔色が変わり、

「今朝、こちらの宮邸に伺ったのはひとえにこの話(安康天皇暗殺)の噂があるために、兄宮に内密でご相談をするための用向きで伺ったのだ。今、兄宮の同伴者が大泊瀬幼武命と聞き、このような大事を公表もせず、秘密にし、今兄宮と今上天皇が殺害されなさったのに、狩猟などの遊びとは合点がいかない。」

と、なお続けてお問いになって、
「同伴者の大泊瀬幼武尊より一昨日、ご親書をこちらに寄越されて回答を待ち受けて持ち帰ったのですが、その際にこの老人は不在で、宮が回答なさった内容は存じませんでした。それで臣下のこの身をもち、諫言同様に、思うところを様々に申し上げれば、
市辺押磐皇子は『今回だけはこの老人の言うことはきかない』とおっしゃるため、やむなくご下命どおりに、昨日、申の刻までに諸準備整えて御出立あそばされました。何分にも、急な仰せのために、従者など諸準備に忙殺され、ついに貴宮までご報告漏れとなってしまいましたこと、重ね重ねこの老人が愚かであるためです」となお一層お詫び申し上げ、お許しを乞う旨申し上げ、真心籠めて物語るのでした。

広告



© 真澄探当證を読む All rights reserved.. Powered by Blogger.